『安芸津風土記』に阪田泰正氏によって阪田桃雨が紹介されているので引用する。
「阪田桃雨(1857~1944)。桃雨は名を恒四郎と言い、安政4(1857)年7月9日、阪田林助(母キミ)の次男として大阪堀江で生れた。当時父 の林助は忠海より大阪の地に出て幕府の御用銅吹所熊野屋彦太郎の副支配人を勤めていたが文久元(1861)年10月故郷に錦を飾り余生を安楽に暮らそうと 忠海に帰ってきた。恒四郎4歳の時である。明治5(1872)年恒四郎が16歳の時父が死亡。爾来母の手一つで育てられていたが、明治13(1880)年 当時の郡長であった松浦唯次郎の推挙により豊田郡役所書記に任ぜられた。翌14(1881)年5月15日、三原藩の国学者沖加都麻(勝間)の四女ツネと結 婚し5男4女をあげた。明治27(1894)年、考えるところがあって、官職を辞し、明治29(1896)年大阪に移り、印刷インキ、ワニス製造販売業、 阪田インキのち株式会社阪田商会を創業し、新聞インキの大手となった。その間、同業組合を起こし、推されて組合長となった事もある。大正5(1916) 年、還暦に達するや家業を次男の素夫に譲って隠居生活に入り俳句を楽しんで芭蕉さながらの生活を送った。ところで、恒四郎は明治7、8(1874、5)年 頃から広島市の多賀庵由池翁について数年間俳句の指導を受け、15(1882)年春から三原町の平田虚心庵十水に師事して俳句に心を傾け、多賀尾女史、京 都芭蕉堂露翠翁及び大津義仲寺無名庵霞遊宗匠等に引き立てられた。俳号を桃雨と号し、昭和4(1929)年7月、阪田商会に若草吟社をつくり宗匠として活 躍した。旅行と風呂が好きで78歳で富士登山をやったり、九州耶馬渓をたずね山陽をしのんで『筆掛の松仰ぐ厳やかへり花』の句を作ったり、鞆仙酔島で『島 の灯の潮路にゆれて夏霞』の句をよんだり旅の逸話は数限りない。昭和18(1943)年桃雨翁米寿祝賀大句莚が高弟の石川藍折によって竹林寺で開催され、 近畿各地より宗匠、先生、俳友の会するもの150余名、祝吟300余章、集句5000に及ぶ大盛会であった。昭和25(1950)年この日の感激を永久に 記念するために、句集『若竹』が発刊された。昭和19(1944)年3月5日歿。享年88歳。」(阪田泰正「忠海の句碑」『安芸津風土記』第12号所収 P61~63)
私の父は忠海の町で脇本プリント社という小さな印刷屋を営んでいた。印刷屋といっても、活版印刷ではなく、いわゆる「ガリ切り」の謄写印刷だった。ヤス リの上のロウ原紙に鉄筆で書くもので、裸電球のもとで母と二人で徹夜で仕事をしていたことを今でも思い出す。印刷も輪転機などなく、謄写版で印刷するのだ が、鼻歌で『湯島の白梅』を歌いながら父が手刷りで印刷し、間紙を入れるのが私の仕事だった。この謄写印刷のインクが『阪田商会』製のもので、ベンジンで 薄めて使用していたことを克明に記憶している。