忠海の港町としての発展に寄与したのが北前船である。その北前船について柳哲雄『風景の変遷-瀬戸内海』は次のように述べている。
北前船とは瀬戸内海から日本海沿岸の港に船籍を持ち、大坂と蝦夷地の間を西回り航路で航海した船のことを指すが、蝦夷が開拓され始めた宝暦(18世紀半 ば)年間から盛んになり始めた。北前船は船主が自己資金で商品を購入し、それを適宜販売する「買積船」であった。船は早春の大坂を発ち、大坂や瀬戸内海の 途中の寄港地で酒、紙、煙草、米、木綿、砂糖、塩など各地の特産品を買い入れ、南風を受けて日本海を北上し、5月下旬に蝦夷地に着いて、そこで積み荷を売 りさばいた。そして、蝦夷地で食用の身欠きニシン、肥料の胴ニシン、数の子、干鰯などの海産物を買い込んで、8月下旬に蝦夷地を出発し、日本海や瀬戸内海 の各港で積み荷を売りさばき、11月中に大坂まで帰るという行程をとるのが普通である。
最近、加藤貞仁文、鎧啓記写真『北前船 寄港地と交易の物語」という本が無明舎出版から刊行された。その帯には「18道府県182市町村を走破し、史跡や 文書、関係者や記念館を訪ね、日本海が表日本だった時代を平易な文章と1000点余の写真で検証する歴史探訪ガイド」とある。この本の中に忠海が出てくる ので紹介しよう。
忠海は寛文3年(1663年)に広島藩から分家した三次支藩の蔵米移出港である。三次藩はその後断絶したが、忠海の繁栄は続き、一時は遊女が百人以上もいたという。東の三原や西の竹原より港が整備され、回船が寄港しやすかったためだ。
回船問屋だった旧家の資料によると、奥羽、北陸など北前交易地域をはじめ九州や太平洋岸の尾張の回船も寄港した。特に多いのは今治や松山、宇和島など伊予船である。炭、蝋、紙など伊予の特産品が移入され、逆に米穀や野菜、雑貨などの生活物資が積み出された。
師岡佑行編集師岡笑子現代語訳の『北前船頭の幕末自叙伝-川渡甚太夫一代記』の「海上日記」には嘉永3年の5月23日に忠海に寄港した記述があるので転載する。
一、廿三日朝見れば元の嶋の沖に居る故いかに思ひしに汐早し風なぐ故也。
○ 船頭水子 ろ揃てこぎ行ケど 夜明ケてみたらひの嶋ハ替らず
一、同昼の九ツ時にくる嶋え落入汐を見て、
○ 指汐来てくる嶋になる瀬渡の音ハ 滝のながれにまさりこそすれ
一、同夕汐掛忠の海に掛り、さつまの守忠度の事思ひて、
○ なにしおふ八嶋の浦に程近き 湊の月にもただのりの海
一、同夜の九ツ時に忠海を出帆する。明テ廿四日朝六ツ時にいと崎といふ所を汐掛、三原城を見て、
○ いと崎の瀬戸おし明ケてながむれバ 三原の城に朝日さすらむ
忠海の港町の繁栄を示すものとして江戸屋(羽白家)と沖胡屋(荒木家)の『御客船帳』がある。吉川弘文館発行の『街道の日本史42瀬戸内諸島と海の道』に次のような記述があるので紹介しよう。
幕末期には、民衆の生活と商品生産・流通が日常的な次元で結びつき、よりきめ細やかな流通網が形成されつつあった。御手洗港から は目と鼻のさきにあたる忠海港の問屋、浜胡屋と江戸屋には幕末・維新期の客船帳がのこされている。その取引港・得意船数・交易品目などを分析された豊田寛 三氏は、忠海港と芸予叢島島嶼部および東予中予地域との間に日用品の交易をおこなう『生活圏』が形成されていること、豊後との関係においても佐賀関半島以 北についてはそれに近い関係を想定されている(「幕末・維新期の九州廻船と安芸忠海港」)。
ちなみに浜胡屋には5038艘、江戸屋には6693艘の得意船記載があるが、双方あわせて1000艘以上になるのが伊予・讃岐・安芸の船で、500艘以上 は周防・長門・豊後の船である。このような状態は何も忠海港にかぎったことではなく、後背地を持つあちこちの港が網の目状に結ばれ、豊後を含む瀬戸内西部 に一つの地域交易圏を想定することも可能であろう。