小説に描かれた池田徳太郎については、これまで藤沢周平、司馬遼太郎、柴田錬三郎を紹介したが、新選組をあつかった小説の古典は、明治になっても生き続け ていた新選組の関係者からの聞き書きをもとに書かれた子母沢寛の『新選組始末記』だろう。最近中央公論文庫から子母沢寛の新選組三部作『新選組始末記』 『新選組遺聞』『新選組物語』が改版されて刊行された。ここでは『新選組始末記』の中から池田徳太郎についての記述を抜粋してみよう。 「浪士募集の段取りについては、すべて(清河)八郎の策に出で、同志、石坂周造、池田徳太郎の両名が、関東からずっと甲州の方面にかけ熱心に遊説を試み た。石坂は彦根の浪人、池田は芸州の浪人だが、二人とも肝っ玉の太い機略のすぐれた人物で、こういう事にはもって来いの腕があった。その頃は牢に入ってい たが、この仕事をやるために、赦されて出て来たものである。」(P34)
「近藤勇は、取締付池田徳太郎の手伝役として、道中の宿舎割を命じられて本隊より一足早く、宿々へ先乗りをする事になったが、板橋、蕨、浦和、大宮、上 尾、桶川、鴻ノ巣、熊谷、深谷と行って次の本庄宿へ着いた時、どうした訳か芹沢鴨の宿舎を取ることを忘れて終っていた。そこへ夕刻になって本隊が着いて、 いざッとなったら、芹沢の宿がない。池田も近藤も、しまったと思ったからすぐに芹沢のところへやって来て、『芹沢先生、拙者共の粗忽でござった』と、いろ いろにして詫をするが、芹沢横を向いて碌に返事もせず、いっかな承知をしない。しかしおしまいには、『いや、御心配には及ばん、宿無しの拙者にはまた拙者 の考えが御座る。今夜は夜中篝を焚いて暖をとって過ごそう。しかし、その篝が少し大きいかも知れぬからお驚きになるな』と、いった。日が暮れるとすぐに、 さア手当り次第、木材を集めて来て、宿の真ん中で天も焦げるような大火を焚き出した。火の子は宿中へ雨のように降る。みんな水桶を下げて屋根へ上っている という有様で、何時火事になるかも知れないから、百姓町人、寝る事も出来ない始末。この一件は、それでも池田と近藤が、虫を殺して三拝九拝して、漸く、芹 沢をなだめたが、その後も宿々での我儘はやめなかった。」(P43~44)
「石坂周造は、はじめから清河(八郎)の策動とは切っても切れぬ縁があるが、明治34年3月9日、史談会へ出席して親しく当時の有様を話している。五百名 程が横浜へ乱入する、それには目印として何か赤い物でも付けて、赤い陣羽織でも着たら宜しかろうとこういう。それは如何にも面白い、茜の陣羽織を着るとい うことは昔家康公が茜の陣羽織を用いたことがあるから大きに宜しかろう。その陣羽織を用いるには千五百両掛る、其の金がない。千五百両位の金が尽忠報国の 党が大義をなそうというに、それ位の金が出来ぬという事は無かろうと、いろいろ評議をしたところが、国家のためにするところであるから一つ奸商を脅かして 取ろうと言うて、中には暴論もありました。今日になって考えると大変な暴論ですが、その時分の考えではそれが相当な考えですな。自分等が一身を犠牲に供し て国家のために尽すので、横浜あたりに居って外国人を瞞着して得た所の金は、どうしても、そういう物をとっても宜しいとこういう論者がございました。さ ア、それなら何処へ金を取りに行くといったところが、其時分の評議には、根岸に本間主馬という者がいる。是は宮様の御家老で大変に金がある。(中略)その 本間の家へ行って見ますと、建仁寺垣でつまらぬ門でございます。その門を押し倒して入っても何でもございますまいが、どうも良心に恥じまして中に這入れな い、そうすると、池田徳太郎でございます、これが呼びました。『何んだ』『いや、この企ては止そう』『どういう訳だ』『いやまあ考えて見よう。万一これが 露顕して見ると、今日まで銘々尽忠報国だといって、艱苦した者が、盗名を以て終らなければならぬ。故に、これはどうしても止そう』こういうことで其企てを 止めました。(中略)この談話をした頃は、石坂(周造)翁は、越後の方へ行って頻りに石油の発掘をやり、失敗又失敗にもこりず、奮闘していられた。あの燃 ゆる液体へ『石油』と最初に名をつけたのはこの石坂翁である。」(P60~62) この3つの逸話には、機略に長け、深謀遠慮の人と言われた池田徳太郎の人となりがよく表れている。