前号で紹介した『西河克己映画修業』という本を、さらに読み進んで行くと、『エデンの海』はその後二回映画化されたが、残念ながらその撮影場所は忠海ではなかったということについての事情が語られている。
「『エデンの海』は、西河さんが松竹の助監督時代に一度やってますから、一種のリメークということになりますね。
ええ。これには本当に縁があって、ぼくがヘッドの助監督のときに中村登さんが監督して、そのとき最初のロケハンはぼくが全部やったんですよ。
こんどのロケーションも松竹作品のときと同じところへ行かれたんですか。
前のところへ行ったら、だめだったんです。池田勇人っていう人が総理大臣になっちゃって、となり町の竹原っていうところの出身者で、そのために忠海は竹原 に合併されまして、竹原市になったんですよ。その直後に政治道路ができて、それが学校の校庭と海岸線とをむすぶ境界線に、土手を築いて、九十九里浜の『波 のり道路』と同じのができたんです。だから小さいトンネルをくぐらないと今度は海に行かれない。また学校の校庭から海が見えないんです。それで、代わりを ずいぶん探し回ったんですね。校庭から見えないにしても学校の窓から海が見えたらいいっていうんでね。
もうひとつの条件は、馬で走り回るシーンがあってね。ここに非常に難しいことがあるんです。たいがいね、学校でしかも海が見えるっていうと、ちょっと高台 のようなところにあるのが多いんですね。そうするとそこへ簡単に馬で行くっていうのは出来ない。石段みたいになってましてね。結局海のそばにあるんだけど 海の見えない高松の学校でやりました。」
このときの主演は、高橋英樹と和泉雅子である。余談であるが過日香川県から忠海公民館に生涯学習についての視察があり『エデンの海』が話題になった。その 時、ある香川県の公民館の主事さんが、「実は、その『エデンの海』の撮影があったのは私の学校で、高橋英樹や和泉雅子を間近に見て感動した。」と話され た。映画のロケが残すインパクトの大きさを痛感した。
三回目の『エデンの海』の主役は南條豊と山口百恵であるが、西河克己さんはこのときの事情についても語っている。
「『エデンの海』は、かつて高橋英樹、和泉雅子で撮られてますが、この作品で三浦友和がはずされてますね。最初は『若い人』をやることになっていたんで す。それまで三浦と百恵がずうっと一緒にやってきたけれど、このへんでいっぺん離してみようということになってね。ところが『若い人』の先生役を予定して いた加山雄三や石坂浩二が駄目になって、そこへホリプロが南條豊をなんとかしたいと言ってきたけれど、彼では若すぎるということで、それなら『エデンの 海』の新任の先生役ならいいだろうということで、『エデンの海』に変わったわけです。山口百恵の『エデンの海』の時、女子高生のクラス40人をすべてオー ディションで集め、その中から、主役の百恵をいじめる重要な脇役の4人を選んだ。4人のうち最年少の15歳の少女が、なかなかいじめっぷりが良かったの で、ぼくはその少女を『よござんすか』というニックネームで呼ぶことにした。それは将来、ヤクザ映画の女壷振りがやれそうな面構えに見えたからである。 (中略)『よござんすか』の本名は浅野温子といった。」
この『西河克己映画修業』という本は権藤晋さんのインタビューによるものだが、権藤さんは、その「あとがき」でつぎのように書いている。
「かくも私たちが西河家訪問を繰り返したのは、監督の口からこぼれる談話が、とびぬけて面白かったからだ。『話し好き』の監督は、午後の明るいうちから夜 の更けるまで、松竹助監督時代の逸話、日活監督時代の秘話、百恵・友和映画の苦労話、さらには中国、ビルマ戦線における戦争体験などを聞かせてくださっ た。それらは、『講釈師、見てきたような嘘をつき』どころの面白さではない。生の体験談である。いわば『歴史の証言』である。かつて実在した映画人が、現 在も活躍する映画人が西河講談の中で縦横にはねまわる。聞き手である私たちは、あるときは異常に興奮し、あるときは年がいもなく胸をあつくし、あるときは 大声で笑い転げた。」
実は、竹原市民館での『エデンの海』上映会を終えたあとの懇親会で、私たちは西河克己監督を囲んで、この権藤さんと同様の至福のひとときを過ごしたのであ るが、この『西河克己映画修業』という本を書店で見つけ読んでみると、その至福のひとときがよみがえったので、ここに紹介した次第である。