忠海中学校に「資料室大久野島」があるのをご存じでしょうか。「この資料室は1992年に忠海中学校の生徒会と教職員が中心となって、保護者、忠海町の関係者、当時の大久野島毒ガス資料館館長村上初一さんの協力により完成したものです。当時の忠海中学校の生徒のつくった版画レリーフや模型など、生徒が平和への願いを込めて作った作品などが多数展示されています。また、関係者が寄付した毒ガス製造の容器やマスク、被害者の写真パネルなど、毒ガスの悲惨さを伝える資料が100点以上展示されています。世界平和を願って、中学生が中心となって作った資料室は全国的にも貴重です。」(山内静代毒ガス島歴史研究所代表の紹介文)
この資料室の黒板には忠海中学校生徒会が資料室オープンした1992年11月15日に発表した「忠海中学校宣言文」が掲示されています。
忠 海 中 学 校 宣 言 文
私達は、今まで何度も大久野島の毒ガスについて学習してきましたが、もう一度毒ガスのおそろしさを見つめ直そうと思い、この学校に毒ガス資料館をつくりました。
長い歴史の中で、人間は幾度も戦争をくり返し、その度に毒ガスなどのいろいろな兵器を使い、たくさんの人々の血を流してきています。そして現在も、核兵器などの兵器がどんどん作られ、戦争が行われているのです。私達は平和な生活に甘え、何も知らずに過ごしているのではないでしょうか。
今でも、戦争に使われる兵器はたくさん残っています。私達一人一人の力を集め、本当に平和な世界を、私達自身がつくりあげるのだという強い決意を持ち、行動していくことを宣言し今日ここに、毒ガス資料館を開館します。
1992年11月15日
忠 海 中 学 校 生 徒 会
当時の『中国新聞』は「竹原・忠海中毒ガス資料室が完成-容器や写真、生徒の版画も」という見出しで報じているので紹介しよう。
竹原市忠海町の忠海中学校(上垣和義校長、246人)の3階に大久野島毒ガス資料室が完成し、15日の同校文化祭で開所式があった。
資料室は同校生徒会(佐伯美帆会長)と教職員が中心になって、忠海町の関係者、大久野島毒ガス資料館の村上初一館長らが協力して作った。展示品は100点以上にのぼり、3年生90人余りが2年のとき制作した版画レリーフ12枚を壁の一面に大きく飾った。毒ガス貯蔵庫や砲台跡の戦争遺跡を白黒で生々しく彫ったもので、生徒の平和への願いがこもっている。大久野島の戦時年表と毒ガス工場群の並ぶ立体図も生徒たちの力作。
資料室中央には、大久野島毒ガス資料館から借りたり、関係者が寄付した毒ガス製造の容器類やマスクが展示され、被害者の写真パネルなど悲惨さを物語る資料がずらり。教職員らが出版した『おおくのしま』や忠海病院関係のビデオ、新聞資料などもあり、今後は一般に広く公開される。
開所式では佐伯会長が『毒ガスや戦争の恐ろしさを資料室を通して伝えたい』と述べた。」(『中国新聞』1992年11月18日号)
この資料室を訪れた作家の早乙女勝元さんは、その感想を次のように書いている。
「その資料室だが、一歩入ったとたんに、あっと声を上げたくなるほどだった。想像したよりも、ずっとよくできている。毒ガス工場時代の大久野島の立体模型を中心にして、『化成釜のふた』など製造機器の部品なども展示されているほか、島の歴史年表から、製造された毒ガスの種類、装置の見取り図もある。もちろん、その毒性の人体への障害も忘れていない。何枚もの写真パネルに、完全防護服姿のマネキンまである。
入口の壁には、『忠海中学校宣言文』なるものが張り出されている。この展示への生徒会のメッセージだ。(前掲文)1992年11月15日とあるから、オープンして、ちょうど一年が過ぎたわけだ。もちろん教師集団の系統的な指導があったものと思われるが、先生からいわれたのでやるくらいの生半可な気持ちでは、ここまではできまい。
なにしろ、テーマへの意気込みが感じられる。島の立体模型一つをとってみても、ずいぶん根気のいる集団作業だったはずである。生徒たちは、それらの取り組みを通じて、だんだん本気になっていったのではないのか。かれらの祖父母のなかには、島で毒ガス製造に従事していた人もいたことだろう。その苦しみようを知っていたかもしれない。
中学生たちは、この展示行動によって、島の歴史を正面から見つめ、戦争とは何かを具体的に追体験できたのではあるまいか。
私は、もう一度、宣言文に目を向けた。戦争を知らない世代の代表ともいうべき中学生が、『世界平和のために何をなさなくてはならないか』を考え、平和な世界は『私達自身が作り上げるもの』という心意気は、いかにも力強くてたのもしい。私たち一人一人がという表現が、念入りに二度も繰り返されているが、その主体性が特に大事なのではないかと思う。」(早乙女勝元・岡田黎子編『母と子でみる毒ガス島』草の根出版会P131~132)
ぜひ一度訪れて、当時の中学生の大久野島平和学習の成果を見届けるとともに、この資料室の保存をはかっていかなければならない。