先日、広島の古本屋で若杉慧著『石佛讃歌』という本を手に入れた。1968年(昭和43年)に社会思想社から発行された本で、表紙の裏に「石佛花ざかり 慧」と自署されているので、若杉慧がどなたかに贈呈されたものかも知れない。
若杉慧は、晩年石佛に深い関心を抱き、『野の佛』『石佛巡禮』『野ざらしの歴史』『石佛のこころ』等多くの石佛に関する著書がある。この『石佛讃歌』も 前著『石佛巡禮』の拡大版をつくるという企画であったが、「この機会にフイルムの総点検をおこない、差し替えなどしているうちにだんだんその方が多くな り、原則として元のは使わぬことにした。文章の方も稿を改め別のものとした。こうして私の石佛集に新たな一冊を加えることになった。」と序にある。
この本には、1960年(昭和35年)5月3日に撮影した3葉の写真とともに若杉慧の解説文が付されている。1枚目は黒滝山をバックにした地蔵院山門の写真に対して
「佛通寺派地蔵院の山門より黒滝山を望む。
35年前、朝夕この山頂よりの鐘をきいた。当時この町の女学校に勤めた。二十歳すぎの頃。
登山路の至るところに十三佛や三十三観音がある。何度か登り下りした路だが、むかしはそんなものを目にもとめなかったらしい。梢に高く春蝉をきく。
頂上の堂宇も鐘楼も戦後の改築ときく。鐘の音もむかしのヒビわれた音ではなかった。
しまじまをみわたすここにただのうみ あくるもしらぬいりあいのかねと誌された札が楼の柱に打ち付けてあった。」(P63)との文が付されている。
2枚目は、黒滝山頂の写真に対して
「さらに登って『石鎚大神』の石祠あり、『黒滝大明神』の幟も立つ。さらに登ってふりかえると、大久野島、高根島、四国の山々は霞んで見えない。東の入江の奥に以前の女学校あり。」(P64)の文が付されている。
3枚目は、黒滝山の鎖場の写真に対して
「鎖登りとなる。環の一つ一つに寄進者の名前が彫られている。登り切って見おろす。ここからしばらく平坦、白滝山にかかってさらに急峻となる。」(P64)の文が付されている。
ところでこの『石佛讃歌』には「観音菩薩」についての若杉慧の一文がある。「冠をつけ裾の長い着物を着、蓮のつぼみを持って立つのは観音菩薩です。」 (P153)「観音さまには聖観音のほかに十一面観音、千手観音、馬頭観音、如意輪観音、不空羂索観音と像形のきまったのが六つあって六観音、准砥観音を くわえて七観音ということもあります。」(P154)「あなたがたがどこかのお山に登られたり、お寺の裏山などで、ある距離をおいて石佛が並び、それが地 蔵頭でなく冠を着けたものばかりであったら、それは西国三十三番を小規模に模したいわゆる『三十三観音』であると思われてよいでしょう。石や札に番号が 打ってあったらいっそうまちがいなしです。さきの七観音のどれかを本尊とした寺々ですから、石佛もそれに相当するように彫ってあるはずです。三番四番五番 六番十番十二番十六番十九番二十番二十二番二十三番二十五番二十六番三十番三十二番が千手観音でいちばん多く、二番八番十五番十七番二十四番三十一番三十 三番が十二面観音でその次です。二十九番松尾寺だけは馬頭観音を本尊としています。馬頭さまはここが一つだけです。」(P154~155)
黒滝山は別名「かんのんさん」と呼ばれるように、この観音信仰の山であり、若杉慧との因縁を感じさせます。