川手健は新日本文学会広島支部の事務局も務めている。峠三吉は子どもや大人の原爆詩アンソロジー『原子雲の下より』の依頼を受け、新日本文学会広島支部に 「原爆の詩編纂委員会」の結成を呼びかけた。原爆の詩編纂委員会は編纂顧問に佐久間澄(広大教授)坂本寿(広島県詩人協会)マクミラン(FOR)田渕実夫 (浅野図書館長)山代巴(作家)編纂委員に峠三吉(詩人、新日本文学会)川手健(広島文学)野村英二(われらの詩の会)三住淳(カジカ会)落藤久義(エス ポアール)小西信子(民主婦人クラブ)栗原貞子(生活新聞社)深川宗俊(広島県歌人協会)佐々木健朗(広大サークル)らを選び驚くほどエネルギッシュに活 動を行った。毎日手分けして各小中高大学校、労組、一般文化団体などをまわり、人々に詩を書いてもらうよう働きかけた。毎夜その報告を持って集まり討議 し、翌日また計画に従い出かけた。わずか1カ月少しで詩・作文は1389篇集まり、その中から279篇を選び、それをさらに精選して1953年9月に詩集 『原子雲の下より』が出版された。1989年8月、峠三吉の甥にあたる三戸頼雄氏宅から、峠三吉の未発表作品を含む草稿や資料が見つかり『原子雲の下よ り』未収録作品の一部が発見された。この発見された原稿をもとに『新編・原子雲の下より』が亜紀書房より出版。さらに1990年7月『行李の中から出てき た原爆の詩』が、暮しの手帖社から刊行された。(峠三吉没後40年企画・岩崎健二『風のように炎のように峠三吉』峠三吉記念事業委員会発行 P156~161)
このようにして川手健の詩集編纂の仕事は今日に引き継がれている。一方原爆被害者の手記集は『原爆に生きて-原爆被害者の手記』として1953年6月に結 実している。編纂委員の顔ぶれは作家の山代巴、隅田義人、山中敏男、川手健、松野修輔の5人で、巻頭に編纂委員連名の14ページにも及ぶ長文の「序」が掲 げてある。同書刊行の経緯は、「序文」によると1948(昭和23)年8月、原爆被害者の手記を収集することを発意、「新聞やラジオによる募集にはあまり 頼らず」に、編纂委員が「被害者の家を直接訪問してお願いし、書けない人々のは代筆してもいい、発表の機会に恵まれない人々の手記を書かれることに重点 を」置き、「足を使って原爆被害者のナマの声をじかに聞き、口述筆記するなど、作為のない、ういういしい手記」を集めようと、4年後の1952(昭和 27)年8月から被爆者の家庭を訪ねて「そこにある苦しみをみ、共に語ったせいからか、この仕事は最初から最後まで、未知の世界に驚異の目をみひらいた時 の、感激というか、興奮というか、あのういういしいものによって推進され」、27篇の手記が苦心の末、生まれた。同書編纂の一人、川手健は「半年の足跡」 のなかで「考えて見れば原爆が広島に投下されたのはすでに7年半も前のことである。その間に被害者の組織が出来なかったというのは一つの不思議に違いな い」とし、孤立し、見捨てられたまま、なんの発言力も持たない「原爆被害者自身の口から、全世界に向って原爆の惨禍と平和の必要を訴えるその意義は大き い。原爆の投下が世界史的に大事件であるなら、その被害者が立ち上がって原爆の反対を叫ぶこともまさに世界史的な出来事である」と洞察している。(水田九 八二郎『原爆を読む』講談社P97~98)
この「半年の足跡」の中には「被害者の組織化がおくれた責任の一端は、原爆を平和の立場から取り上げようとした人々の側にもある」と明確に指摘した一節が ある。「彼らはその運動を当の原爆被害者の中から引き出そうとはしなかった。疑いもなく戦争を望む勢力にとっては最も打撃になるに違いない筈の、原爆被害 者の団結と被害者の組織的な平和運動については余り関心が払われはしなかった」(前掲『中国新聞』)という指摘は、後の原水爆禁止運動への鋭い指摘となっ ている。
大多和章六氏は「目立たない温和でいつも黙考していた生徒」という印象を語ったが、被爆体験をもとに峠三吉や山代巴とともに被爆者運動の黎明期を生きた川手健の思想から我々は多くのことを学ぶことができる。