「マニラ渡航前の山根について、出身地の二窓では次のように伝承されていた。『嘉永元年、村の豪農山根久之丞さんの長男として、ここ二窓で生を受けた。明 治22年(1889年)、41歳の時、農家に牛の必要を悟り、旅券を受け、船をチャーターして朝鮮への牛の買い付けに出向いた。明治27年(1894 年)、日清戦争が始まるまでこの仕事を続けた。(ひろしまみんぞくの会『フォークロアひろしま』1981:413)実際に山根は明治22年(1889 年)4月2日付で、旅券の交付を受けている。渡航先は釜山で、渡航目的は商用、当時の年齢は40歳10カ月であった。マニラ渡航以前は、地元二窓での農業 経営を基盤としながら、朝鮮などに出かけ、農業以外の実業経営を模索していたと考えられる。のちにマニラでの試験的操業に成功したあとも、茶木や桑苗の移 植を計画したが失敗した。山根は漁業の出身ではなかったが、実業経営を目指すタイプであったらしい。山根はフィリピンの漁業を目的に、明治33年11月5 日付で、旅券の交付を受けた。忠海町の漁業者である中蔵九良三郎と浜内権吉の2名を雇い入れた。(略)山根は故郷二窓が打瀬網漁のさかんな地区であったこ とから、打瀬網漁の操業を予定していた。日本から藁縄や重り石を運び込み、『積ミ卸シニ不便少ナカラス』という状態であった。1月1日に船を購入、修繕に 出し、1月10日にマニラ湾ではじめて打瀬網漁を試みた。カレイ・ヨソ・ハモ・エイ・エビなどの水揚げがあった。網卸の初日ということで、知人に漁獲物を 贈った。その余りを販売したところ5円の利益があった。山根が用いた日南丸は釣船のような小型船で、日本の打瀬網漁船のように大きくなかった。その後、5 月末までの5カ月間で、操業日数は84日、総収入は1036円11銭で、1日平均12円余りの水揚げがあった。この操業成績は日本国内と比べると予想外に すばらしいものであった。漁業者一人当たり116円余り支払った。漁船・漁具・操業時間を調整すれば、今後大きな利益が上がるものと見込まれた。山根の試 験的操業は大成功で、漁業によって稼得金を得て帰国する者は初めてであるとマニラの日本人社会で噂になったほどであった。」(前掲書P245~247)
「明治34年(1901年)、帰国した山根は、本格的操業にむけて準備を整えた。故郷二窓で、漁業に熟達した者や網の補修ができる漁民を集め、自分も含 めて15名の集団を作った。各々100円を出資して、携行する漁具などを購入した。3艘の漁船を携えて渡航した。11月から操業を開始した。一説に、岡山 県日生で打瀬船4艘を購入したという。船は神戸から外国船に搭載した。運賃は70円、フィリピンに持ち込むときは輸入税を支払った。マニラでは家賃が高い ので、漁業者は漁具の監視を兼ねて漁船で寝起きし、釣った魚を副食にし、一人の生活費は1日20銭で収める予定であった。山根は自分の所有船に、忠海1 号・2号・3号と、故郷にちなむ名をつけた。」(前掲書P248)
「明治36年、広島県出身者でフィリピン・マニラへ漁業目的で旅券下付を受けた人数は合計87名に及んだ。地御前村、江波村からの出漁者が目立って増え ている。また、この年はじめて百島カラ出漁している。明治34年までは山根の出身地である忠海出身者を中心に漁業者を集めた。しかし、笠井亨三が加わって から、出漁する漁業者の勧誘方法が変化した。明治36年には出漁者の数もその母村も目立って拡大した。(略)笠井が計画したマニラでの本格操業の形態は、 各地から打瀬網漁に長じた漁業者を集め、法によって雇用者と被雇用者の関係を結ぶというものであった。山根が当初、故郷で出漁者を募った方法とは異なって いる。笠井が加わることによって強まったこのような傾向は、山根とは相容れない部分があったのかもしれない。もともと漁業者の出身ではなく、漁業について の知識や技術に熟達していたわけではない山根やその息子はマニラ湾の漁業から次第に離れていった。『山根は同地に茶及び桑苗の移植を企図し3度帰国してこ れを求め渡航せしも、不幸眼病に罹りて再三再四返還の厄に遭ひ愈々上陸の許可を得しは明治39年にして種苗は枯死し、一方漁業はその間休漁を続け、上陸ま もなく病魔の襲ふ所となりて一子与一右衛門を彼の地に遺し同年59歳にして没す』(広島県水産会1927:102.103)と伝えられている。」(前掲書 P249~255)
このようにして山根与三兵衛によって開拓されたマニラ漁業は、その後、百島や田島の出身者に引き継がれていく。「大正11年(1922年)にマニラ漁業関 係者は、山根与三兵衛の碑を出身地の忠海町二窓に建てることを計画した。碑文には、同郷の漁業者がマニラ湾での操業開始の徳をおもい、8県12郡1市2町 14村の浄財を集めて碑を建てたと記されている。8県とあるが、大多数は広島県出身者である。この場合の同郷とは忠海町だけではなく、広島県を指してい る。山根と直接対面の機会を持たなかった人々も出資している。山根が亡くなって16年も経つのに、開拓者のシンボルとして碑を建てたことは興味深い。 (略)山根は、初期漁業の開拓者として印象に残る存在だったのだろう。」(前掲書P272~273)