文藝春秋編『同級生交歓』(2006年7月20日発行)という本(文春新書)の中に放送作家の高橋玄洋と画家の平山郁夫が旧制忠海中学校の同級生として掲載されているので紹介しよう。
平山郁夫談「高橋玄洋さんとは変わった同級生である。高橋さんは海兵予科からの復員転校生、私は広島市の中学からの戦災転校生で、忠海中学で一緒になった。
私は中学4年から東京美術学校に入ったが、それまで中学の近くにある禅寺・勝運寺に下宿していた。高橋さんは私が出た後、そのお寺の下宿人になられた。休暇で帰省し、同寺に立ち寄ると高橋さんが小説を書いておられた。その時の二人は高校生と美校生というより、小説家と画家の卵の会話という風であった。25年前のことではあるが、すでに高橋さんには小説家の風格があり、その折の作家的な鋭いひらめきはいまだに記憶に生々しい。」
広島市修道中学3年生だった平山は、爆心地から2・5キロ、勤労動員の作業中に被爆する。命からがら惨禍の街を脱出して、実家への道をたどった。
戦後すぐ(昭和21年11月)に入り直した学校が、瀬戸内海に面して風光明媚な地にある忠海中学だった。「ちょうど東京から疎開して帰ってきていた大伯父の清水南山の家が隣町の幸崎町にあったので、そこに下宿して通うことになったのです。(『群青の海へ』)。その大伯父の強い勧めによって画家の道を目指すことになった。清水南山は東京美術学校(現東京芸術大学)で彫金科の教授をつとめた人物。
高橋は忠海中学で太宰治、坂口安吾を読み漁り、早稲田大学文学部に進んだのち売れっ子脚本家になっていく。(文藝春秋編『同級生交歓』P136~137)
朝日新聞社が発行している本に『新人国記』がある。その昭和57年9月30日発行の中に平山郁夫と高橋玄洋が掲載されているので紹介しよう。平山郁夫は「反核の思い深く」の項に次のように書かれている。
「広島県の人国記を取材して人に会い、戦争が、とりわけ1発の原子爆弾が人びとに刻んだ傷の深さに改めて驚かされる。昭和20年8月6日朝、広島市上空で炸裂した「リトルボーイ」。そのキノコ雲の下で傷つき、逃げ惑い、絶望した多くの体験談にいま出会うとき、それはもう、温暖な広島に根付いた「反核」ともいえる風土ではないか。その人たちの「あの夏の朝」から始めたい。(中略)そんな時刻、爆心2・5キロ、学徒動員先の陸軍兵器補給厰で被爆した日本画家平山郁夫は惨禍の町を脱出、生口島の実家への道を必死にたどっていた。修道中学3年の平山に、その道が後年、シルクロードにつながるとは知るよしもない。」(P98~99)
さらに「原爆に怒りの絵筆」の項では次のように書かれている。
広島県立美術館の「広島生変図」は、生口島生まれの日本画家平山郁夫の作。業火に組み敷かれる広島の町と、一面炎の天空に「生きろ!」と叫んでいる憤怒の不動尊。縦1・7メートル、横3・6メートルの大作だ。描写のスピードに定評のある平山が、これをかきあげるのに、二十年の歳月を要したという。シルクロードを描いて日本画壇の寵児。清浄、平明、端正。東京芸術大学教授、日本美術院理事。その平山にして「原爆」の絵筆は、重かった。
広島の修道中学三年で被爆、けがはなかったが、焦熱の地獄をみた十五歳の少年は、救いを求める人々の声を背に「聞こえぬふりをし、見えぬふりをし」一目散に郷里を目指す。以来、「逃げた負い目」が自身を責め続ける。
東京芸大に学び、前田青邨の助手を務めた時期、白血球が異常低下し、画業に行き詰まった。「君には被爆体験があるじゃないか。それをなぜかかない」。仲間たちはそういった。夜、夢に爆死した親友があらわれる。翌日もその次の日も、カンパスに向かう絵筆はもう石のように動かなかった。不安と焦燥と孤独。そのとき、東京五輪聖火のリレーコースに「シルクロード」の新聞報道をみる。シルクロード-仏教東漸の道、その苦難の旅僧たちに思いをはせる。生涯の転機だった、という。
いま、平山をシルクロードをたどる求法の旅僧に見立ててはどうだろう。仏教にひたすら心の平安と絵筆を託す今日の平山の道程が浮かんではこないか。
三十四年、最初の仏画「仏教伝来」。さらに「入涅槃幻想」「仏説長阿含経巻五」など。それが母体となって、仏教東漸の道に没頭する。「絵かきでなく、生き残った人間として、なにができるのか。遠い歴史の舞台はそれを悟らせてくれたんです。長い時間がかかりました」
「生変図」は五十四年秋に完成した。作家井上靖に「信用金庫の課長風」と表されるほど実直な平山が、初めてみせた激しい「朱」のたぎる画面である。(P100~101)
高橋玄洋は「映像の底流に故郷」という項に次のように書かれている。
「視聴率の魔術師、というんだそうだ。放送作家高橋玄洋。主な作品は芸術祭奨励賞『傷痕』、テレビ記者会賞『判決』、久保田万太郎賞『いのちある日を』。NHK『繭子ひとり』、TBS『三男三女婿一匹』。いま、続編の『野々村病院物語』が放映中。
硬派よし、軟派よし。笑わせ、泣かせ、茶の間の支持率が常時二桁台。人気のゆえんは、底流にある正義感、ほのぼのした優しさ、体温のようなぬくもりだ。はぐくんだのは広島だという。
終戦二日目。海軍兵学校から復員した十六歳の玄洋は爆心地近くの焼け跡で、失明した八、九歳の女児に出会う。「お母ちゃん」と泣くばかりの孤児であった。持っていた焼きおにぎりを食べさせた。収容所に連れていった。かいがいしく面倒をみた玄洋はしかし、最後に「心の負債」を背負う。別れ際、一つ残ったおにぎりもあげようといったん決意しながら、ためらった末に、「さよなら」だけをいってしまうのだ。
人間のエゴ、弱さ、業の深さ。そんなことを思い知らされた悔恨が、のち玄洋を文学に走らせた。作品に流れる温かさは、この「おにぎりの教訓」である。(P108~109)