忠海港は、寛文3年(1663年)三次藩が蔵米移出港として船入堀を築調し、蔵屋敷・船蔵を設置してから港の機能を備えるようになった。
享保5年(1720年)三次藩の廃止により広島藩領に還付された後も西廻り航路を通う諸廻船の寄港地として繁栄し、干鰯・米穀・雑穀をはじめ諸物産の移入、鉄・麻苧・紙・煙草など広島特産物の移出など廻船商事が盛んになった。
忠海の羽白家に残る『御客船帳』(江戸屋)には、忠海町の万問屋江戸屋と取引のあった得意先の諸国廻船が、文化文政期から明治10年代にわたって来航した年月日をはじめ、船名・船頭名・交易品目などを記している。
その取引国・港の総数は37ケ国609港、船数6693艘にのぼり実に広範囲におよぶ交易地域を形成していた。
その地域は中国・四国、上方はもとより、東は尾張、西は九州全域、北は出羽・越後・佐渡から西廻り航路沿岸にいたっている。そのうち、取引得意先の廻船入 港数は、讃岐の915艘が最も多く、つづいて周防の668艘、伊予の629艘、ほかに200艘以上の諸国に、阿波・播磨・安芸・長門・石見・出雲・豊後・ 越後などがあげられる。
また、取引商品の品目も、実に多岐にわたっており、そのうちでも、安芸・備後・周防・伊予・讃岐・豊後など瀬戸内海に接した近隣諸国の商品数が、断然他の 諸国を上回っている。これら諸品目のうち、諸国に共通して見られるのは、米・雑穀と干鰯類、および塩などである。 米・雑穀は主として移入商品であり、領内各地での消費向けか、他廻船への転売用に取引されている。干鰯類は瀬戸内海沿岸部の商業的農業(綿作・米作・煙 草・麻苧)の肥料として、全国からのものを購入し、仲買商人を通じて後背地農村に向けて転売されている。 塩は竹原塩をはじめ忠海塩浜で生産された全国流通商品であり、諸国の交易品目にあらわれるのは、そのほとんどが移出商品であった。 その他取引品目に共通してみられる特徴は、諸国各地の特産物が多く含まれていたことである。 たとえば、周防の縞木綿・石炭、豊後の七島表・籠、日向の椎茸・材木、薩摩の砂糖、肥前の唐津物・焼物・土瓶、尾張の唐津物、紀伊のみかん・杉丸太、摂 津・播磨の酒・味醂・酒粕、淡路の瓦、讃岐の白砂糖、阿波の藍玉、土佐の鰹節・椎茸、伊予の紙・蝋・取膳・生姜などであり、18世紀後半から諸藩が国産奨 励策を行い、その結果生産が急上昇して他国販売にまわされたものが多い。(『広島県史』より)
この文章は、『広島県史』近世2「Ⅲ都市の発展と商業・金融」の項に「忠海港の廻船商事」として9ページにわたって書かれているものの一部です。
ここに出て来る『御客船帳』は江戸屋(羽白家)のものですが、『広島県史』には浜胡屋(荒木家)の『御客船帳』も引用されています。 江戸時代の忠海が、まさに瀬戸内ど真ん中の港町としてにぎわっていたことを示しています。