神田三亀男著『広島民俗の研究』という本を竹原書院図書館で見つけた。この本のなかにたびたび忠海が登場するので紹介しよう。その一つが「かべり」である。その解説に忠海が登場する。
「物を運ぶのに頭に乗せる方法は広く分布しているが、県内では沿岸島嶼部に見られた。第2次世界大戦後まで残っていたのは大崎上島、豊田郡忠海町など沿 岸部と、島の漁民の間にあった。これも昭和30年代までで完全に消えた。荷物の安定とクッションのために藁や布で作った輪(荷座)を頭頂部において荷物を 乗せる。イワシなどの行商人は、70㎝四角、深さ15㎝ほどの籠に、20㎏以上も入れて、内陸部まで歩いて運んでいた。荷物を頭上にかつぐから『かべり』 とか『かつぎあきんど』といった。
かべりの行商圏域は賀茂・世羅・双三・御調などの各郡であった。主に豊田郡安芸津・忠海・安芸郡海田方面から入った。かべり女というくらい、すべて女性 で漁民が多かった。かべりは、賀茂郡以北に入ると大きい農家に泊めてもらい、2日がかりで売り歩いた。かべりは互いに縄張りを尊重しあい、毎年同じ人が やってきた。双三郡三和町敷名のあたりまで、かべりの足跡が印されている。
秋から翌春にかけて運ばれるのが生のコイワシであった。秋になると、江田島・能美島・倉橋島・安芸津・忠海・三原市沖などはイワシの豊漁で賑わった。か べりの荷はコイワシである。内陸部の人たちは、かべりがやってくると、生の小魚が食えるので喜んだ。大量に買い込んで『イワシを漬ける』というくらい、秋 の野菜とコイワシを素材に漬物にした。現在も賀茂郡北部・世羅郡などに『イワシヅケ』という独特の郷土食があるが、かべりの人たちの持ち込むイワシの保存 食として古くから開発され、愛好されたものである。
イワシヅケは塩辛づけともいっている。秋の祭礼や正月の御馳走であった。イワシは囲炉裏で焼いて食ったり、野菜は汁の実にした。そのまま酒の肴にするの が普通だった。『イワシヅケを食うた人の雪の上の足跡は一目見ればわかる』というくらい、田舎の栄養食だった。だからイワシヅケを食べたおりの小便は、よ く効く肥料だといった。『イワシヅケを食うたら夜遊びをすな』と叱る親がいた。道端や他所に放尿しては勿体ないからである。このことは、かべりが商売の効 能として、生んだものかも知れない。」
(神田三亀男『広島民俗の研究』P128~129)