朝鮮通信使が5回にわたって忠海に停泊したことはすでに述べたが、最近広島の古本屋で西村毬子著『日本見聞録に見る朝鮮通信使』という本を見つけた。この本に延享5年(1748年)の朝鮮通信使の記録が詳しく掲載されているので紹介しよう。
延享2年(1745年)徳川吉宗は61歳で将軍隠退を発表し、世嗣の35歳になる家重が9代将軍となった。「将軍家重襲職の祝賀」のために来日したのが正使・洪啓禧、副使・南泰耆、従事官・曹命采を三使として475名で編成された延享の朝鮮通信使である。
この時の様子を主として従事官曹命采の使行録『奉使日本時聞見録』若松実訳と『宗家記録』の「延享信使記録下書」、『宗家文庫』の「延享信使雑記」に よって日記形式にまとめたものが先述した西村毬子著『日本見聞録に見る朝鮮通信使』に「使行日記」としてまとめられている。この延享5年の朝鮮通信使は行 きも帰りも忠海に停泊しているので、その記述を紹介しよう。
4月13日 曇昼すぎ雨 北風(14日曇おそくに雨) 泊 安芸忠海(船中)[松平安芸守吉長]
今日は出船するとのことで、松平安芸守から3回目の音物が三使と上々官にあった。広島藩は、塩鴨1桶と覆盆酒を贈っているが、『奉使録』では、塩漬けの 鴨は毛を抜かずに塩に漬けたので口にできないとぼやいている。巳の上刻(午前9時)乗船して、広島藩の護行船に守られ鞆浦に向かった。この間100㎞近く あり一気には行けず、途中、忠海に申の下刻(午後5時)入り繋船する。三使は揚陸して泊まりたいといったが、雨天でもあり、ここは臨時の寄港地で人家も遠 く、船中で泊まってほしい、もし明日も留まるようならばまた考えるといってなだめた。
4月14日 晴天 西風(15日曇 西風) 泊 備後鞆浦[伊達大膳大夫村隆]
風が順風なので早く出発せねばと、卯の中刻(午前6時)出帆した。『奉使録』は忠海のことを「此の島には人家は多くはないが、またみな華麗であり、所々 に薪を多く積んで置き、あたかも我が国の江村に似ており、此の島の人たちはみな塩を煮るを生業としているという」と記している。やがて美味しい酒と良紙を 産する三原を通り、田島を過ぎ矢島のあたりにくると、絶壁に青い壁がはめこまれたようなところの上に草庵があり、殷々とした鐘の音が響いてくる。海潮山磐 台寺である。
帰路も忠海に寄っている。
7月11日 晴 東風のち西風 泊 安芸蒲刈沖 船中[松平安芸守吉長]
卯の上刻(午前5時)鞆を出船した。往路で草庵から船を漕いで出迎えた海潮山磐台寺の僧がまた来て、「圓通道場帰帆無難之符」と書いて差し出したので、信使の各船から薬果・紙・扇子などを与えた。
昼ごろより潮の様子が悪くなり、未の刻(午後2時)忠海へ着いて繋船した。このとき、黒雲が天を覆い日差しも暗く、稲妻が光り強風が吹いた。対馬守は、 ここは船をおくところではないので順風次第出船するといい、酉の上刻(午後5時)船を動かし夜通し進んで、夜明けに蒲刈沖に着いた。
この記述を見ると、当時の忠海の景色は華麗であり、塩業を生業としていたことが伺われる。