かねて『忠海再発見』で紹介した小山祐士のご子息が忠海中町2丁目にお住まいの田上恒平氏である。その田上氏から『小山祐士戯曲全集』の第3巻と第4巻をお借りした。この第4巻に大久野島を舞台にした『日本の幽霊』が掲載されている。
この戯曲では、忠海町は磯浜町、大久野島は花之島という名前で登場する。プロローグは次の文章ではじまる。「瀬戸内海の風景を描いた紗幕。無数の島々。中央に見える一番近い島が『花之島』である。次の台詞につれて、ライトは『花之島』にしぼられたりする。沖を走るポンポン船の音。音楽は『瀬戸の船歌』美しい静かな曲になって―B・G
広安軍造(40歳)防護服、ゴムズボン、ゴム長靴、ゴム手袋の完全防護の姿で、左手に防毒マスクを抱えて立っている。傍らに高崎ツル(41歳)。こざっぱりした備後絣を着て、麦藁帽子を顎で結び、ユンボ(蜜柑をもぐ籠)をさげている。」そして最初の台詞は「花之島」の紹介ではじまる。
軍造 広島から約七十キロの地点にある磯浜町という小さな町の、南方三キロの海の上に浮かんでおります花之島は―(と指さして)―面積が約二十五万坪。周囲が五キロ。年輪を重ねた大きな松の木と、天然記念物に指定されておりますバベの木の大樹と、雑木林におおわれ……。
ツル 花之島の名前のように、ゲンカイツツジの名所としても知られておりました。ガイ(大変の意)に美しい静かな島でござりゃんして……。軍造 島の南と、四国側の島々の季桃の瀬戸は、私たち近在の漁師にとっては、マッコト大事な漁場だったんです。その花之島には、今から十五年前の昭和の始めの頃までは、(ツルをさして)こちらの高崎ツルさんたち七軒の農家と……。
ツル 一本釣りの漁師をしとりんさった、この広安軍造さん一家と……。
軍造 燈台守の家族など四十数人の者たちが、貧しいながら、静かに、平和な暮らしをしとりました。
ツル ところが、昭和二年の春でしたわいね。私たち七軒の農家と……。
軍造 あたしの家に、何の前ぶれもなく、突然に、トッポに強制立ち退きの命令が来まして、島の浜辺の要所要所には、(音楽S・O)「一般人の立ち入りを禁ず。陸軍造兵廠火工廠」と書いた大きな立札が立ち……。東京から百人に近い陸軍省の工事人夫たちが、島に乗り込んで来やんして、仮小屋の飯場を作って寝泊まりをし……。
ツル 島の西の海岸線に沿った海を、花崗岩の風化した黄色い山土で埋め、基礎工事の杭を打ち……南の海岸に沿って、東西に四米幅の立派なコンクリートの道路をつくり……緑の木々におおいかくされるようにして、島のあっちこっちに、鉄骨コンクリートの建物が、幾棟も幾棟も建ち……「東京第二造兵廠火工廠、磯浜兵器製作所」と書いた看板がかかげられたのは……。
ツル 昭和四年の……四月一日でごりゃんした。(『小山祐士戯曲全集第四巻』P306~308)
この『小山祐士戯曲全集』第四巻には「私の演劇履歴書(四)」が収録されており、その中に「訪中新劇団と『日本の幽霊』」という文章があるので抜粋して紹介しよう。
「(訪中新劇団の上演脚本の以来を受けて)ふと私の頭に浮かんだのが『毒ガスの島、大久野島』である。毒ガス傷害による後遺症は原爆のそれに劣らないほど残酷で悲惨なものである。そうだ、過去の軍国・大日本帝国の恥部をさらけ出すことによって、自らを反省しながら、全面禁止を訴えよう、と考えた。『大久野島』は、疎開中にも、東京に帰ってから瀬戸内海地方に出かけた旅行の時にも、何度も何度も、汽車の窓や汽船のデッキの上から眺めていながら、『その小さな島が毒ガスの島だ』ということは、私はうかつにも全然知らなかった。その島の名前さえ知らなかった。その島は地図の上からは消されてしまっていたので、私が知らなかったのは当たり前かも知れない。
大久野島が毒ガスの島だと知ったのは、昭和三十三、四年である。それからというものは、私は広島や瀬戸内海地方に出かけると、たいていの時、その島の町に立ち寄るようになった。ほかの仕事の事で四国の松山や高知に出かけた時にも、わざわざ回り道をして、その島の町に行ったこともある。あらゆる階級のあらゆる職業の人たちに会って、話を聞くために、何日かずつ付近の旅館に泊まったこともあった。昭和二年に軍部は『一般人の立ち入りを禁ず、陸軍造兵廠火工廠』の立て札を立て、昭和四年の春、毒ガスの生産を始め、終戦まで十六年間という長い年月にわたって、毒ガスという兵器を作っていたのだから、取材することは、幾らでもあった。昭和二年といえば、ジュネーブ協定で、国際法として毒ガスの厳禁が再確認されたのが大正十四年であるから、そのジュネーブ協定の翌々年である。
私は、実に沢山の取材をしていながら、その島を舞台にして戯曲を書くということは、過去の軍国・大日本帝国の恥部をあばき出すようで、大変気が重かった。しかし、現在も後遺症で苦しんでおられる沢山の患者の方たちのことを思うと、その方たちに代って、私は私なりに、いつかは戯曲を書くことによって化学兵器の恐ろしさを世間に訴えなければならないと、いつも思いつづけていたのである。
私は『大久野島物語』日本の幽霊を書くことを決めて一応、素材を整理してみる、という条件付きで脚本を引き受けた。」(『小山祐士戯曲全集第四巻』P511~513)