朝鮮通信使については、この忠海再発見ですでに取り上げましたが、誓念寺の山門に掲げられた山号の額「願海山」が朝鮮通信使の正使の揮毫によるものだと書きました。
そのことを証明する史料が『海游録』なのです。『海游録』は、享保4年(1719年)に、徳川吉宗が将軍職についたときに、祝意を表するため派遣された朝鮮通信使に製述官として随行した申維翰が記録した日本紀行文です。
この時の朝鮮通信使は、総勢475名で、正使は洪致中という人でした。4月11日ソウルを出発、対馬を経由して(水先案内人として対馬藩同乗)瀬戸内へ、 8月蒲刈着、海路で大阪へ、上陸後陸路京都を経て江戸へ9月27日到着。10月1日江戸城で吉宗襲職祝賀、15日まで江戸に滞在し帰途についています。復 路11月に蒲刈に着いていますが、その直前に思わぬ風雨に見舞われ、上陸を余儀なくされました。その地が忠海で、その記録が『海游録』に残されています。 その部分を引用してみましょう。
11月19日丁亥。晴。東北風がたちまち起こり、舟人たちは早く出発することを欲したが、しかし対馬大守は出発する意思がない。日の高さが3丈ばかりとな り、はじめて鼓を打って、諸船はついに進む。しかし10里も行かぬうちに風向きが西風に変わり、雲陰が四方を塞ぎ、驟雨もまた降ってきた。奉行は、ここを 去る数十里のところに忠海村があり、停泊することができるという。よって格卒たちをして力尽くして櫓を漕ぐようにさせ、昏黒に忠海村に着いた。しかし、水 が浅くて村岸に舟をつなぐことができず、ついに碇を下して宿す。(中略)
翌日には大風あり、舟をはげしくゆさぶった。奉行は村中の一小寺を得て、諸使臣を上陸させた。正副使公は小船に乗って上陸したが、従事公は病をもって辞した。余もまた諸僚とともに舟中に留まり、別に餅、麪などの膳羞をつくって宴酣の具にした。(中略)
翌日、余は諸僚とともに小舟を呼び、陸に出て使臣たちの居る寺に行った。寺の名は誓念寺といい、狭苦しいが精灑、小庭の草木はいずれも妙にして、老梅の一 樹がすでに花を咲かせて可愛らしい。 浦岸の人家は数百戸、麦田が縦横し、田畦には孔を穿ちて糞尿を貯えている。路上に見る樵の男や水を汲む女は、勤倹に して農家の趣きがあり、市肆の繁華とは大いに異なる。地は安芸州に属す。