大久野島毒ガス資料館は1988年に完成した。その初代館長となったのが村上初一である。村上初一は大阪府保険医協会反核合同イベント実行委員会編『核と毒ガス』という本の中で次のように語っている。
「いま、大久野島毒ガス資料館には、年間2万4千人の学生が来ます。これはほとんど大阪、京都、奈良など小学校の修学旅行生です。その語り部をいたしま すが、生徒の質問に『なぜ、こんなに恐ろしい毒ガスを造ったのですか』と、この問いかけにどう答えますか! 『戦争で戦う武器にするため』としか私には答 えられないのです。広島の原爆資料館は、戦争の被害の面が理解できます。大久野島毒ガス資料館では戦争のどの部分でしょうか? 毒ガスは敵を攻撃する武器 であり、そのほかのなにものでもなかった。いわゆる戦争の加害性としての意義を持つものであります。そして、毒ガス製造によって受けた障害はすべて被害で あります。この意味において、戦争の加害者、被害者の立場を理解する平和学習の糧となり、後世に語り継がねばならない。私の生命の限り、『語り部』となり たいと決意しています。」(「記録のない島で-生命ある限り、戦争の加害と被害の語り部として-」)
イアン・ブルマ著『戦争の記憶 日本人とドイツ人』という本の中に村上初一と大久野島毒ガス資料館が登場するので抜粋してみよう。
この工場で働いていた生存者は、その多くが慢性の呼吸器疾患に悩まされており、1950年代にその窮状の認定を政府に訴えた。だが、政府はその訴えを退 けた。この労働者たちに補償をすれば、日本陸軍が不法な事業に携わっていたことを公式に認めることになるからだ。教科書に化学戦争にふれた記述がちょっと でもあれば、文部省はたちどころに削除させた。それでも毒ガス工場の記憶を完全に消し去ることはできなかった。1975年、毒ガス障害であることを証明で きた生存者になにがしかの補償金が支払われることになった。1985年、戦時中ここで死んだ労働者をいたむ小さな記念碑が建てられた。1988年には、生 存者たちの努力が実って、小さな資料館、そこのパンフレットによると「真実を後世に語り継ぐ」ために建設されたのである。
一室だけの資料館の管理人は村上初一という名の小柄ながっしりした体つきの人である。彼は元プロボクサーかと思わせる鍛えられたタフな風貌をしていた。 村上が毒ガス工場で働き始めたのは1940年、14歳のときで、雑用係として雇われた。給料はいいし、彼は日本が戦争に勝つためのお役にたつのだという 「自己犠牲精神に溢れて」いた。それは軍隊で昇進する道でもあった。村上の案内で、禍々しい展示品を見てまわった。ガスマスクをした木馬、膿んだ傷やでき もので皮膚が醜くただれた毒ガス兵器の被害者の写真、古びた防毒マスク、工場の中庭で銃剣術の練習をしている女生徒の絵、日差しのなかでうすら笑いを浮か べている陸軍士官たちの記念写真。
村上の説明は事務的だった。説教調でもなければ道徳を説くこともなかった。日本人の国民性を語ることにも関心はないようだった。正直な男だとの印象を受 けた。彼は、この場所のことをこれほど克明に覚えているのは、アメリカから返却された資料を見せてもらったからだといった。私がこの資料館の目的について たずねると、彼はこう答えた。「『戦争は二度とごめんだ』と叫ぶ前に、戦争が実際にどんなものだったのか、事実をみんなに見てもらいたいのです。被害者の 観点から過去を見るだけでは、憎しみをつのらせるだけですからね。」
広島の平和記念資料館のことをどう思うのかと聞いてみた。「広島の記念資料館では、被害者意識を感じやすい」と彼はいった。「ですが、私たちは祖国のた めに戦うのだと教育されました。祖国のために毒ガスを作りました。戦争を戦うために生きていたのです。戦争に勝つことが唯一の目標でした。」目を細め、手 のひらを拳で叩く村上は、ますますプロボクサーに見えた。「いいですか」と彼はいった。「相手と戦い殴ったり蹴ったりすれば、相手も殴り返し蹴り返してき ます。そしてどちらかが勝つのです。さて、この戦いはどのように記憶されるのでしょう?ひたすら蹴られたことを思い出すのか、それとも先に蹴ったのはオレ の方だということを思い出すのか。そこのところを考えないかぎり、私たちは平和を手にすることはできません。」(イアン・ブルマ『戦争の記憶 日本人とド イツ人』TBSブリタニカ P136~138)