私は一度だけ今は亡き森瀧市郎先生の自宅を訪ねたことがある。ちょうど今から十二年位前(1987年)のことである。先生といろいろとお話しをしていたと きに先生から「君は忠海の出身なら井上義光師をご存じか」と尋ねられた。わざわざ写真まで見せていただいて、「私は学生を連れてたびたび井上義光師のとこ ろへ参禅し、教えを受けた。大変尊敬している人だ」と話された。森瀧市郎氏の『反核三〇年』という著書の中に「忘れがたい人々」と題して次の一文がある。
「昭和四三年(1968年)の年末の日記を読みかえすと、この年のはげしさがひしひしと想起される。12月31日(火)『‥‥‥昼過ぎまで年賀状書 き。‥‥午前2時半に至って年越そば‥‥この年井上義光老師を失う。学友湯浅・中谷両君逝く。郷里では玄田末太郎翁(スエサン)逝く。近所では原爆孤児を 育てあげた山本鮮魚店主人が肝臓ガン(被爆者)で逝く。浜井信三氏も急逝‥‥‥』」(森瀧市郎『反核三〇年』
P103~104)と井上義光師の名前が一番にあげられている。 森瀧市郎は「愛の文明」と「慈の文化」ということを唱えている。
「あの恐ろしい原爆惨禍の状況を思い浮かべながら、私はこんな恐るべき兵器を作り出すようになった近代の文明は同じ方向をとりつづけてもよいのか、同じ方 向をとりつづけたら人類は自滅するより外ないのではないか。何かちがった新たな文明の方向はないのか。このような、素朴な、しかし真摯な文明判断をいだい たのであった。こんな思索の結論として私は近代文明を『力の文明』として批判せざるを得なかった。では力の文明に代わる新たな文明の方向とは何か。結局私 はそれを『愛の文明』の方向と見定めたのであった。というのは、原爆惨禍の悲境の中で私は人類の永遠の教師ともいうべき釈迦・キリスト・孔子の教えの根本 にたずねかえらないではおれなかった。その時、これらの教祖は一人として『力の原理』を肯定するものはなかった。一様に力の原理を否定して愛の原理を強調 したのであった。」(森瀧市郎『核絶対否定への歩み』P90~91)
「武器と言えば原子力や細菌が用いられるという段階にまで来た時に、
人類の理性は今一度勃然と目ざめなくてよいものであろうか。『力の文化』は徹底的に反省され批判されずにいてよいものだろうか。力をあこがれ、力を尊び、 力による闘争的解決のみを求める人間の生活態度そのものが深刻に懴悔されなくてよいものだろうか。ここに『力』を原理とする覇道的文化に対して『愛』を原 理とする王道的文化の方向、『力の文化』に対する『慈の文化』の大方向を示す宗教道徳上の教説が、今一度すなおに謙虚に懴悔的にかえりみ尋ねられる必要が ないものであろうか。」(森瀧市郎『核絶対否定への歩み』P101)
このような思想にもとづいて森瀧市郎が生涯つらぬいた核実験抗議の座り込みについて次のように書いている。
「昭和37年4月20日から12日間米国の太平洋上空核実験に抗議して慰霊碑前に坐り込んだ年である。その時『坐っていて実験をとめることができるか』と いう少女の質問にであって、私が苦悩の末たどりついた結論が『精神的原子の連鎖反応が物質的原子の連鎖反応にかたねばならぬ』というのであった。」(森瀧 市郎『反核三〇年』P125)
このような森瀧市郎の思想に、忠海勝運寺での坐禅の体験や井上義光師との交友が影響をもたらしたことは疑う余地がないのではなかろうか