2016年1月に広島紙屋町のシャレオで古本まつりが開かれた。そこで森本繁著『歴史紀行瀬戸内の海賊衆』(山陽新聞社)という本を手に入れた。
この紀行文の中に「将星たちの軌跡」と題して浦宗勝の軌跡とともに忠海についても手際よくまとめられているので紹介しよう。
「浦(乃美)兵部丞宗勝は小早川水軍の至宝である。宗勝は、毛利元就の三男隆景を沼田の小早川家に迎え入れるために奔走した乃美家(隆興)の分流に属するが、父賢勝が浦家を相続したので、浦氏となって小早川家に仕えた。浦氏は小早川宣平の七男氏実が南北朝時代に沼田浦ノ郷を与えられておこした一家である。現在の三原市田野浦・須波・幸崎町および竹原市忠海町の一帯を領して、早くから瀬戸内海に進出した。宗勝はその浦氏の伝統を受け継いだ小早川警固衆の統帥である。
浦宗勝がその勇名を知られたのは、厳島のときである。すなわち、『豊田郡誌』によると、『弘治元年、元就宗勝をして厳島の宮尾城を築かしむ。而して宗勝は隆景に従ひ、共に折衝して伊予の能島・来島及び因島の海賊衆を招き、其兵船を率いて二十日市に元就の本陣に会せり、九月三十日、元就風雨に乗じ出船、厳島包浦に航す。宗勝は隆景に従ひ、一隊の陸兵を載せ、別に要害鼻に向て航し、敵の誰何をあざむき、其兵を上陸せしめ、再び二十日市に引還り、海賊衆の将村上某と共に能島来島の全艦隊を率ひ、海岸に沿ふて進み、宮内玖波方面に到り、艦船を配列し、陸戦の起るを待ちて陶の海軍を厳島の海岸に襲撃し、之を鏖し、以て敵陸兵の逃去を防ぎたり』と記されている。
宗勝が厳島合戦の際、能島におもむいて村上水軍を味方につけるよう説得したことは有名な話だが、これは宗勝の姉が因島の村上吉充に嫁し、その娘が能島の村上隆勝に嫁して武吉を生んだ(『村上家譜』)縁故による。
そのあと、宗勝は毛利氏の防長計略の際にも水軍を率いて上関から下関の間を警固し、大内軍と豊後大友氏との連絡を遮断している。また、毛利氏の雲伯計略にも宗勝は水軍を率いて参戦し、雲伯海岸を封鎖して尼子氏の陸上補給を妨げた。
宗勝が石山合戦に木津川口の海戦で活躍したことは前に述べたが、さらにこの勇将は陸戦においても抜群の手柄を立てている。永禄年中の九州や四国における勇戦はよく知られているが、天正三年の備中常山城(岡山県玉野市)攻囲の際には城主上野隆徳を攻めて、これを自刃させている。
今は桜の名所になっている標高307㍍の常山にのぼると、山頂近くに城主高徳に殉じて討死した高徳の妻鶴姫以下三十四人の女軍の墓があるが、なんと、その女性たちが長刀をふるって突入した山麓の敵陣が、浦宗勝の陣地だったのである。」(森本繁『瀬戸内の海賊衆』(P314~316)