森本繁著『歴史紀行瀬戸内水軍』という本に、小早川家第7代当主宣平の第5子・氏平を始祖とする小泉一族とその居城・上野(こうずけ)城と菩提寺・龍泉寺についての紀行文があるので紹介しよう。
「龍泉寺は安芸小早川氏の一族小泉氏の氏寺である。山陽本線を三原駅で下車し、駅前バス乗り場から小泉行のバスに乗る。戦国大名小早川一族を育んだ沼田川は、今も満々たる水量を湛えて流れている。
乗合バスは沼田川を渡り、一度は小早川支族浦氏の領分であった田野浦へ入ったあと、再び沼田川の河畔に出て、川沿いに上流へさかのぼり、明神町の外れの所で左折する。今度は沼田川支流の天井川を西へさかのぼるのである。
三原市都市開発の波は、このような辺鄙な山里にまで押し寄せており、聖光学園という近代的な福祉施設があったり、瀟洒な大病院があったりする。その聖光学 園の左横の天井川北岸にあるのが小泉氏の居城上野(こうずけ)城跡である。比高15メートルくらいの小山で、松の木が茂り、山頂は削平されて、そこには大 きな石の灯台が据え付けられている。いかにも海に向かって発展したこの一族の居城らしい。昔は、沼田川も明神町の所から更に上流へさかのぼった沼田東町や 長谷町の新市という所に沼田小早川氏の港町があった。
だから小泉氏も沼田川から天井川を更に掘り割って、ここまで船を引き入れて海運に従事していたに違いない。小泉氏はこの狭隘な小泉の里から天井川と沼田川 を下り、積極的に瀬戸内の島々へ進出して行った一族である。小泉氏が、因島から弓削島、更に伊予大島へ進出したことは、早くから『小早川家文書』などに よってよく知られているが、その間の岩城島や行名島にも足跡を残したことは、近年発見された佐伯郡廿日市町原にある真言宗極楽寺の『極楽寺文書』によって うかがうことができる。(中略)
上野城のあった所から南へ、途中までしか舗道のない山道をあえぎながら登って行くと、標高340メートルの白滝山の山頂に達する。山頂に八丈岩という巨岩があり、その山頂から少し下りた南側の台地に龍泉寺と呼ばれる小泉一族の菩提寺がある。
参道入口の所に『国立公園白滝山・乾坤第一峰』と刻まれた巨岩があるが、これは昭和45年に刻まれたもの。もと真言宗の寺院で、藤原時代作の十一面観音座 像並びに両脇仏の多聞天と不動明王を祀っている。小早川氏から小泉村を与えられ、小泉氏初代となった氏平が、これを自分の氏寺として宗派を臨済宗に変え た。石段を上がった山門に近く、『不許葷酒入山門』の石柱が眼を引く。現在では同じ禅宗でも小泉氏の撤退によって、元禄5年(1692)から曹洞宗となっ ている。
裏山に小泉一族の墓地があって、その中に小泉氏平の供養塔である宝篋印塔が1基、あたりを睥睨している。小泉一族は応永の頃(1394~)になると、宗平 からその子興平へと家督が移るが、小早川家に残された記録を吟味してみると、当時、小早川氏は盛んに対明・対朝鮮貿易に従事したらしい。小泉氏も小早川一 族の一員として対外貿易に活躍したことは、いわゆる倭寇の名と共に永く土地の人々の記憶に残った。
龍泉寺の境内から更に足をのばして、その裏山である白滝山の山頂に登ると、八丈と名付けた巨岩があるが、その巨岩の東北面には素晴らしい二十一善神の像が 磨崖仏となって刻まれている。武器を携えた異国風の修羅の像で『善神施主次第不同』という名前書によると、この彫刻はどうも近世の作とも思えるが、小泉氏 の昔語りを聞いた当時の人々が、その思いを彫刻師の卓越した鑿に託して、記念に残した彫刻のような気がしてならない。これは、八丈岩を後にして下りた龍泉 寺境内の山門にある石造の仁王像にしても同じである。それまでの日本の彫刻にはない、朝鮮や中国を旅行していてよく見かける、異国風の石人が彫られてい る。」(森本繁『歴史紀行瀬戸内水軍』P176~181)