倉本澄氏は二窓東役所に残る古文書をもとに、二窓浦の近世を次のようにまとめているので、紹介しよう。
1.関が原の戦いののち、毛利輝元が山口県の萩に移され、愛知県の清洲から福島正則が安芸備後の領主として入城しました。しかし、元和5(1619)年、 正則は洪水で破損した広島城を幕府に無断で修築したという理由で長野県の川中島に転封されました。かわって和歌山から浅野長晟が入城しました。その時、浅 野長晟は、福島正則は屈強な武士であるから、宇品沖で一戦戦うかもしれないと思い、塩飽の加古たちに一尺八寸の刀をもたせて宇品へ出陣しました。ところが 正則は穏やかに立ち去りましたので、連れて来た家来や塩飽の加古たちは広島に残りました。
2.寛永4(1627)年、浅野長治を三次藩に分国し、忠海はその藩地となり、港となります。三次藩は二窓に加古役10人を置き、その役人のいた所が2反6畝の二窓漁師屋敷で、水主12人、船頭一人につき4石5斗扶持を与えています。
3.浅野長晟は和歌山に居た時から塩飽の加古たちに船の面倒を頼み、特に六助という加古とは親しく安宅船でも小間立て船でもよいから集めて欲しいとご下命があった。
4.延宝(1678)年、浅野光晟より塩飽の城主酒井忠清に「忠海染め付け茶碗」を差し上げています。この二人の城主は親交厚く「鮎のうるか」を贈ったという文書(大日本古文書家分け浅野家文書)も残っています。
5.享保5(1720)年、三次藩は廃藩となり、二窓の加古たちは職業をなくしてしまいました。
6.宝暦9(1759)年、香川県の宇多津浦に定住したという記録が残されています。仕事は讃州城の参勤の御用をはじめ海運業その他公用を勤めていまし た。公用で坂出の塩を炊く薪を買い付けに行き、帰る途中愛媛県和気郡興居島村の御手洗の沖で台風に会い遭難したとき、安永2(1773)年九反帆の直船頭 権右衛門の置き手形(詫び証文)が現在も完全に残っています。宇多津近辺の年貢米を高松の米蔵に運ぶのに、それまでは馬であったが、途中馬返しと呼ばれる 険しい道で遭難した例が沢山あったので、船で運び喜ばれたと言います。次第に運送業が盛んに行われ、宇多津の港にある長く大きな防波堤は二窓の人が感謝の 心で造ったといわれています。
7.明和3(1766)年、江戸屋徳兵衛が二窓の庄屋に復活します。
8.安永6(1777)年、江戸屋徳十郎が二窓の庄屋になります。
9.天明元(1781)年から寛政にかけて起こった大飢饉に対して二窓東役所では未進帳(税金の滞納をつける帳面のこと)を作って、税金納入を五年間猶予 しています。それでも払えない者には、その子どもが働きだしたとき、又は親方(15歳の名替えの時に名付け親になってくれた人)が立て替えてくれました。 中には海鼠を年貢の変わりに納めている例もあります。
10.文化元(1804)年、塩飽の島々に役目役という代表者を置き、一年に一度は二窓に帰郷して年貢を庄屋に納め、島に帰って島民に郷土二窓のことを報告する義務(『役目帳』)がありました。
11.それがだんだん二窓へ帰ってこなくなりました。すると二窓には年貢・税金が入らなくなりました。二窓東役所の庄屋・村役人が直島の庄屋三宅岡右衛門 と手紙のやりとりをしています。それでも出漁者をなかなか帰してくれません。寛政7(1795)年頃から年貢を納めなくなりました。この年二窓船入新開を 造成したにもかかわらず、年貢は入らなくなり、仕方なく重税をかけることになりました。
12.文化6(1813)年頃から重税に反対して村中が不穏な空気に包まれ、役所では一年間に70~80人の虚無僧・浪人等を雇い入れ、彼らに一人当たり 一匁五分から二匁を日当として与え警護をしていました。ついに文化13(1820)年、村中の人はもちろん、四国へ出稼ぎに行っている代表の者たちも皆、 東役所に呼び集めて、協議の上、役所も役人も庄屋も全部取り潰しにしました。(忠海歴史民俗研究会倉本澄レポート)