この中島董一郎とともにアヲハタの創業に携わったのが廿日出要之進である。その廿日出要之進が逝去して5年後の昭和54(1979)年青旗缶詰株式会社 創立30周年を記念して刊行された『廿日出要之進思いでの記』の中に同郷の後輩で後にアヲハタに入社する宮田真三の「思い出の記」にアヲハタ創業時の廿日 出要之進と中島董一郎、加島正人について書かれているので紹介しよう。
「廿日出要之進は、明治31年11月30日、広島県豊田郡大長村にて父廿日出国三郎、母ナエの長男として生まれました。大長村は広島蜜柑の発祥の地であり、日本最初の蜜柑缶詰が製造された所です。
昔は村民は島の険しい山を開墾して、麦や粟、蕎麦、薩摩芋をつくって生計をたてていました。大長村の人達は『段々畑に桃を栽培した方が、粟や蕎麦を植え るよりも手間がかからぬし、収入も多いわ』ということで、段々畑に桃を植え、何年か経つと、島の段々畑は殆ど桃畑となりました。(中略)父親の国三郎は目 先のきく人でした。桃の収入だけでは生計をたてることは困難であると考えておりました。明治34年頃の大長村の村長は秋光八郎氏でした。常日頃村を豊かに し、村民達に少しでも楽な生活が出来るように考えており、大分県の津久見を訪ねて蜜柑問屋に立ち寄り、色々と蜜柑のことについて話をしているうちに、津久 見の隣の青江の里に早生でしかも味のよい蜜柑があるということを聞き、早速訪問調査し、帰郷の上、村の有志や友達とも相談し、更に詳細に調査研究の結果、 蜜柑を導入し、これの栽培を村民に熱心に奨励しておりました。父国三郎は前述のごとく桃の栽培だけに頼ってはダメだと考えていた矢先でもあり、自分も率先 して蜜柑の栽培に努め、親戚知人にも奨励したようです。明治の末期から大正の初期にかけて、大長村の段々畑は見わたす限りの蜜柑畑になってしまいました。 蜜柑の花ざかりの頃には、島中が芳しい花の香りに包まれ誠に恵まれた環境でした。(中略)会長(廿日出要之進)が大正3年忠海中学校に入学し更に大正9年 農林省水産講習所(現東京水産大学)に進学できたのも蜜柑のお陰だと思います。会長が水産講習所に入学された頃は私は大長小学校に入学した頃で、休暇に帰 省された会長の所に遊びに行き、学校の様子を聞くのが楽しみでした。……私が小学校4、5年生の頃、大長村大浦付近を通っていると、国三郎が海岸を埋め立 てるべく土木工事に熱中されていたが、フト私の姿を見ると手を休め大声で『真三!実はここを埋め立てして将来要之進がここに缶詰工場を造るのだ!おまえも 東京の水産講習所に入り一緒に缶詰を造れ』と言われたことが未だに脳裏に残っています。この場所には後に同郷の篤志家加島正人氏が加島缶詰製造所を設立さ れました。
会長は休暇で帰省されるとほとんど加島さん方に行かれ供に研究されておりました。私の母も、弟の会長に会いたくて訪れるといつも加島さん方へ研究に行って留守でほとんど会えない、熱心なのはよいが、体を壊さなければよいがなあ!と案じておられました。
このような学生時代から蜜柑缶詰の製造には執念を燃やしておりました。会長は大正11年水産講習所の3年生の時、中島商店に実習に行かれ、ご主人の中島 董一郎のひととなり、『事業に対する近代的でしかも合理的の基本理念』にいたく心を打たれ、卒業後の大正12年4月中島商店に入社されました。
中島商店に入社後も、会長は郷里の特産である蜜柑缶詰には相変わらず執念を燃やし、加島正人氏とは絶えず情報を交換し、帰省の都度加島さんの所に立ち寄られ、同氏の研究に協力しておられました。(中略)
(加島正人は)バラックみたいな小屋を建て、それに機械を据え付けるまで、6カ月かかりました。このバラックの工場で、蜜柑の缶詰がで出来たのは昭和3(1928)年でした。そのうち、見本として東京の中島董商店に送りました。
東京の中島董商店の中島董一郎氏は、加島正人氏の製品の販売を引き受け、内地はもちろん海外の販路開拓に非常な努力を傾注され、今日の蜜柑缶詰の隆盛の基礎を確立された。」(『廿日出要之進思い出の記』宮田真三「幼少時代より学生時代」P3~14)