忠海公民館に大久野島のそばにある「ひょうたん島」についての伝説を知らないかとの問い合わせがあったので、越智郡公民館連合会が編集した『越智郡むかいむかし』(昭和51年発行)という本に掲載されているとお答えしてそのコピーをことづけた。
折角なので、『忠海再発見』でも紹介することとしたい。この文章の出所は神原賢(上浦町)氏、文責は森岡礼二(盛小学校教諭)氏である。
◆ひょうたん島
むかしむかし、それこそ大むかしのことです。
大三島の神様と中国地方の神様が、お互いにあの小さな島は、自分の国のものだと言い合ってゆずりませんでした。とうとう神様どうしが、「力くらべ」をして、勝ったほうが自分のものにしようとということになりました。
さて、大三島の神様は、一番足場のよい多々羅岬というところから、一方、中国の神様は「幸崎」という海岸に足場を作って、両方からそれこそ頑丈な綱を島にかけて、「えい」「おう」と力いっぱい引き合ったのです。ところが、両方の神様は力が同じように強かったので、島はどっちへも動きません。何日も何日も引き合っていると、不思議なことに島は急にくるりとひっくりかえってしまったのです。
神様がかけていた綱はそのとたんにはずれてしまい、はずみをくらった両方の神様は、ドシンとしりもちをついてしまいました。思い切り腰を打ちつけた神様が、やっとの思いで立ち上がってみると、驚いたことに、島が「ひょうたん」の形になっています。
これを見た大三島の神様が、「これはちょうどよい。あのひょうたんのくびれたところを境にして、一山ずつわけようではないか。」というと中国の神様も賛成して、話は決まりました。ところが、ひょうたんというのは尻の方が口の方より大きくできています。
大三島の神様は、「やっぱり、わしの方が勝ったぞ。」と喜んで、思わずつかんでいた綱を、ザブンと島へむかって投げ込んだのです。すると、その綱はみるみるうちに七つ岩になってしまいました。それが今も多々羅岬からひょうたん島の方へ、くさりのようにつながっている「七つ磯」だといわれています。
こうして、ひょうたん島は北半分が備後国(広島県)南半分が伊予国(愛媛県)のものになったといわれています。