公益社団法人日本港湾協会が発行している雑誌『港湾』の「読書の声」欄に8月号についての感想の投稿を依頼されたので、その原稿を掲載する。
瀬戸内海のど真ん中に位置し、中国(広島県)と四国(愛媛県)を結ぶ最短距離の港として役割を果たしてきた竹原港と忠海港をもつ竹原市として、港の現場最前線「海のバイパス四国徳島と近畿和歌山を結ぶ南海フェリー」の記事に関心をもちました。
「本州四国連絡橋の整備に伴うフェリー航路は46航路から16航路にまで激減した」とありましたが、竹原市においても「しまなみ海道」の全通によって竹原港と波方港を結ぶ中四国フェリーが廃業に追い込まれました。現在残っているのは忠海港と大三島の盛港を結ぶ大三島フェリーだけとなっています。この航路は広島空港から最短距離で四国今治市を結ぶ「海のバイパス」の役割を果たすとともに、その中間に現在うさぎの島として、また毒ガスの島として世界中から脚光を浴びている大久野島がありますし、大三島には海の神を祀る大山祇神社があります。「海のバイパス」という視点は、小さな航路ではありますが海と空とのインタークロスシティを標榜する竹原市にとっては大変重要な意味をもつものだということをこの記事から感じ取ることができました。
さらに港劇場「江戸時代の讃岐を支えた『砂糖』の積出港」として東かがわ市の引田港と三本松港が「和三盆」として知られる砂糖の積出港として繁栄したという記事が掲載されています。この中に「高松藩では、大坂の砂糖市場で販売を拡げただけでなく、竹原や忠海などの瀬戸内海沿岸、土崎、酒田、出雲崎、浜田、温泉津など日本海沿岸まで砂糖を運んだことが各地の『御客船帳』などにみえます」という記述があり、その結論として「現在、海は陸地を隔てる障害であり、島は孤立した場所という認識が強いが、今一度、場所と場所、人と人とを結ぶ海を見直してはいかがでしょうか」と結ばれています。
この2つの記事に「みなとオアシス」を進める「我が意を得たり」の思いがしました。
ところで海と島の空間について、海野弘著『風景劇場』(六興出版)に次のような記述があるので、紹介しよう。
私は芸予諸島をまわっているうちに、水軍、海賊などの歴史に魅せられてしまった。水軍、海賊といっても、いつも戦っているわけではなく、日常は、漁業や水運業を営む人々であったろう。私が面白いと思うのは、海に生きる人々の独特の空間感覚である。陸の道と海の道とはちがっている。島について私たちはどのように考えるだろうか。陸の空間と海の空間ではその意味はまったく逆である。陸の感覚では、島のまわりは水に囲まれていて、孤立し、閉ざされている。海の感覚では、まわりの水こそが交通路であり、世界中どこにでもつながっている開かれた空間である。因島へ行った時、生口島への橋が建設中であった。私は橋ができると島がつながると思った。しかしこれは陸の感覚で、海から見ればどの島も自由につながっているのだ。水は、私たちをへだてているが、つないでもいる。陸の道があれば海の道もある。しかし二つの道はなんとちがっているだろう。陸の道は、つねに跡がついていて、踏み固められている。海の道は跡がなく、彼方の点と今いる点をつなぐ線上に引かれている。海では、道は自由であり、どのコースをとってもよい。(中略)陸の道は連続的である。したがって、途中をとばして、彼方と一挙につながることはできない。陸の道は、起伏があり、曲がっていて、遠くが見えないことが多い。海の道は平らで、はるかに水平線までまっすぐにつづき、見通すことができる。陸は山や川などの起伏によって区分されているが、海は境界がはっきりしない。陸の空間感覚を持つ人と海の空間感覚を持つ人とではずいぶんちがった世界が見えるのではないだろうか。しっかりした固い土地住むのと、漂う水に生きるのと。土地は、定着と所有の意識を帯びる。私は自分の基盤を持つ。だがそれは基盤に縛られることでもある。水に生きる人は、頼りないが自由である。(P219~221)
海の民に対する興味深い指摘であり、視点の転換を促す指摘である。