忠海西小学校の校庭に「平賀先生」と書かれた石碑が建っているのをご存知でしょうか。この石碑こそ、平賀晋民を顕頌して昭和6年(1931年)に建てられ たものですが、この「平賀先生」の文字は、頼春水の手紙から写し拡大したものです。平賀晋民は頼山陽の父春水の師でした。
平賀晋民は、享保7年(1722年)忠海木原家に9男として生まれました。学問に志した動機は、本郷の専教寺の住僧から孝経を与えられて読んだのが刺戟と なり、その後ますます勉学に励むなかで本郷寂静寺の普賢や三宅子恂を知り、共に研鑽を積みました。そして、本郷に芭園という塾を開いて子弟を教授し、三原 では宇都宮士龍に頼まれて潮鳴館でも講義しています。
当時まだ15、6歳であった頼春水が三原に来て学び、晋民と師弟関係を結んだものと思われます。 それまで独学でやってきたが、学業が進むと共に宝暦12年(1762年)40歳で始めて師につく決心をして、仏通寺の禅僧周契のすすめで九州肥前蓮池にい た大潮禅師の下で学び、さらに禅師のすすめで長崎に行き、さらに九州各地を漂浪して学問を深め、明和元年(1764年に帰郷しています。それからしばらく は郷里にいて、よき指導者として 尾道、三原、竹原と後輩旧友をたず ねて詩作に日をおくりました。竹原 の照蓮寺で「大学」を講義したのも この頃です。
その後、京都にのぼり、病気と闘 いながら著作に没頭し、『春秋集箋』 『世説新語補索解』などを著すとと もに、平賀図書と称して朝廷に仕え、 大阪でも門弟をもち講義をおこない ました。さらに幕府の老中松平信明に迎えられたが固辞し、のち客分として江戸に上りました。
この時、信明に晋民を推挙したのが、加川元厚です。加川元厚は三次の人ですが、忠海にながく住み、のち京都の名医吉益東洞のもとで修業してその高弟となり、江戸に出て独立開業、非常に成功してのち、芸藩に招かれて医員に列せられた人です。
江戸では丁度、寛政異学の禁(徂徠学派の発展に対抗して、官学振興のため朱子学以外の儒学の異説を取り締まったもの)の頃で、荻生徂徠を尊敬する晋民には居心地の悪いものでわずか1年で大阪に帰っています。
晋民は徂徠の学説を高く評価し、心服していますが、決して偏狭な古文辞学の凝り固まりの学者ではなく、徂徠を墨守することなく、広く諸学派、諸学説にわたって、その取捨選択は門弟の自由研究にまかせています。
大阪に帰ってのちは、ひたすら最後の著書『春秋稽古』81巻の完成に力を注ぎ、完成の翌年に71歳の生涯を終えています。 この文章は、第4回郷賢祠祭記念として刊行された『竹原文教発展につくした人々』の中において藻塩卓哉先生が書かれた「忠海の儒者平賀晋民先生伝」から抜 粋しました。
「忠海の儒者平賀晋民先生伝」は、『忠海高校創立80周年記念誌』にも再録されています。
平賀晋民先生旧宅は、新町に残っていますが、その前に立つと晋民や元厚が住み、議論を交わす姿が浮かんでくるようです。