軍事遺産や戦争廃墟を探訪する本の中に大久野島が紹介されている。その一冊目は石本馨著『戦争廃墟』(ミリオン出版)で、「大久野島の秘密毒ガス工場」という表題で発電所跡、長浦毒ガス貯蔵庫、芸予要塞時代の探照灯設備の写真が掲載され、次のような一文が掲載されている。
「広島県竹原市の忠海港から船で15分…。国民休暇村のあるレジャーの島では、可愛いウサギたちが観光客を出迎える。一見平和そのものの光景…。だが、かつてこの場所には、大量の毒ガスを製造する秘密工場が軒を並べていた。大東亜戦争時の毒ガス製造で有名な大久野島と軍事の関係は、芸予要塞の一部として島に砲台が構築された明治33年(1900)から始まった。芸予要塞は敵艦船の瀬戸内海通行を防ぐために建設されたもので、大正13年(1924)に廃止された。当時構築された3つの砲台と夜間海上の敵船を探す探照灯設備の跡が今も残っている。毒ガスの使用は第一次世界大戦後、国際条約で禁じられ、各国とも極秘で実施しつつあったが、わが国も例外ではなかった。大久野島での毒ガス製造は、昭和4年(1929)に始まり、終戦まで16年間続いた。最初に製造されたのはイペリットでフランスから購入した製造装置が使用された。当初、日産100㎏だった製造能力は昭和9年には日産3tに達した。イペリットは皮膚を破壊し死にいたらしめる毒物で「きい1号」と呼ばれた。その後、ルイサイト(きい2号)や青酸(ちゃ1号)など数種類の毒物が製造されるようになった。大久野島の毒ガスは、北九州市で兵器に加工した後、中国大陸に送られた。」(『戦争廃墟』P104~111)
二冊目と三冊目は、竹内正浩著『戦争遺産探訪日本編』(文春新書)と『軍事遺産を歩く』(ちくま文庫)で、一文を抜粋して紹介する。
「昭和19年の工場配置図を見ると、製造工場や貯蔵庫、研究室、毒物焼却場、発電場など島の西部と南部を中心に50棟以上の施設が建ち並び、全島が化学兵器製造のコンビナートと化していた。陸軍では、ガスの種類を区別するため、ひらがなで色の名称をつけていたが、島内では、イペリット(マスタードガス)やルイサイトといった糜爛性ガス(「きい」と呼ばれた)のほか、くしゃみガス(「あか」)、青酸ガス(「ちゃ」)、農薬などが製造された。戦争終結と同時に陸軍は化学兵器を近海に投棄した。その後、大久野島に進駐したオーストラリア軍は、土佐沖への海中投棄や島内での償却によって残った化学兵器を処理していった。毒性の低い「あか」はまとめて島内の防空壕に埋めたという。今も大久野島には忠海兵器製造所の遺構が残っている。明治の要塞が煉瓦や石積なのに比べ、昭和の遺構はコンクリート建築だから、一目で区別がつく。廃墟という名にふさわしいのは昭和の遺構である。島最大の毒物貯蔵庫だった長浦貯蔵庫は北西海岸に今も巨大な姿をさらしている。内部の壁が上まで黒々と煤けているのは、終戦後進駐したオーストラリア軍が、毒性を消すために火炎放射器で表面を焼いたせいだ。」(『戦争遺産探訪日本編』P166~167)
四冊目は、『観光コースでない広島・被害と加害の歴史の現場を歩く』高文研で、この本の中に毒ガス島歴史研究所事務局長・山内正之「地図から消された毒ガスの島・大久野島」という文章が掲載されている。その中から抜粋する。
「三度目に大久野島が戦争に利用されたのは、朝鮮戦争の時である。1951年、米軍は大久野島を接収、弾薬置き場として利用した。大久野島に置かれていた弾薬は、朝鮮に運ばれて戦争で使用されたのである。発電場跡の建物の壁とトンネルの入り口右側に『MAG2』と黄色で描かれている文字は、米軍が描いたものである。日本語の意味は『火薬庫』である。毒ガス工場時代、悲惨な毒ガス製造に協力させられて散々苦しめられた地域住民は、米軍の弾薬置き場として利用されることには反対した。悲惨な戦争への協力を繰り返したくないという思いが強かった。しかし、その願いは届かず、日米安保条約を理由に大久野島は米軍の弾薬置き場となった。1953年朝鮮戦争は停戦し、休戦条約が結ばれたが、すぐには大久野島は返還されず、その後も米軍の弾薬解体処理場として利用された。日本に返還されたのは1957年である。
大久野島は被爆地・広島から約70キロのところにある。同じ広島県内にあり、それほど遠く離れていない。広島も大久野島も第二次世界大戦中、同じように無差別大量殺戮兵器による悲惨な歴史を体験した。違うのは広島は被害の体験であり、大久野島は加害の体験である。しかしながら、広島の原爆被害のことは知っているが、大久野島の毒ガスによる加害のことは知らない日本人が多い。戦争は被害者になっても加害者になっても悲惨である。それを知るためにも被爆地・広島とともに大久野島も訪れて欲しい。戦争の悲惨さは被害・加害の両面から学ぶことが大切である。ぜひ大久野島を訪れ、毒ガスによる加害の歴史を学んでいただきたい。広島・長崎の悲劇を二度と繰り返さないために、『反核平和』を訴えることが大切であることは言うまでもない。しかし同時に、日本が犯し続けている毒ガス加害の事実にも目を向けてこそ、反核平和の声を世界に浸透させていくことになるのではないだろうか。(『観光コースでない広島』P198~199)