竹原書院図書館が昭和45年7月1日に発行した岡本虎一著『竹原市の仏像 第二輯』という冊子を見つけた。その「あとがき」には市立竹原書院図書館資料係・桧山泰二氏が次のように書かれている。
「竹原市の仏像」は昭和45年3月1日付で刊行した第一輯に続くこの第二輯を以て完結の運びとなった。第一輯に収めた竹原町、吉名町、下野町、東野町を除く、新庄町、西野町、仁賀町、田万里町、小梨町、福田町、高崎町、忠海町の各地区が収められている。第一輯の「あとがき」に記したように、この「竹原市の仏像」は、昭和34年12月から35年2月にかけて竹原市史編纂委員会が市史編纂資料収集の一環として、当時、三原市文化財保護委員であり、既に故人となられた岡本虎一氏に委嘱して、竹原市内の全ての寺社を対象に仏像、石造美術等を調査した際の岡本虎一氏の調査記録であるが、竹原市内の全ての寺社、仏像、石造美術等についてのこのような実地調査は、当分の間、再び行われることはあるまいと思われるだけに誠に貴重なものと言えよう。
そこで、この冊子に掲載されている忠海の寺社の仏像についての記述を再掲しよう。
岡本虎一拝観記録(昭和34年12月29日)
勝運寺(曹洞宗)
忠海駅の西方八、九丁の處に在り、徒歩15、6分間を要するが、三原・呉間国道工事のために、寺前に跨線橋が出来て、大変複雑になった。
此の勝運寺という寺号も変わっているが、此の寺の構えは特別の物である。褄坂登りに登りに参道を上ると惣門に至る。惣門内で道は二つに分かれる。正面は庫裡門である。石段がある正面の高い石崖の下角に最近出来たらしい等身よりも大きな石地蔵の座像が六尺位も高い石積の上に座している。作柄は宜しくない。その下に献灯の形で石造灯籠が立っている。頂上に宝珠をおき、屋根は六角で、一角には二流の瓦葺を彫り出してある。その照り反りの状況は、大陸制であることを示している。火袋は格子型に彫った円筒型、二カ所に角型に開口してある。中台は円型に造り、匂欄を刻み出してある。その下は肩を丸めた四角な石、但し下部は上部よりも大きいから、幾分梯形である。その三方に少しく彫り凹めた中に、仏像を一躰宛半肉に彫ってある。最下は少しく小さい方形の石二箇重ねてある。印象的な面白い物である。年代は精々乾隆(西暦1740年頃)の頃、清国か朝鮮で出来たのではあるまいか。
左折すると左下方に池が見える。城濠か、石は高さ約三間、案外に大石を使用した城郭式の石崖である。更に右折、石段を上ると本堂正門である。
本堂西方の山の尾根一帯は墓地である。その墓地の中でも、南端部景勝の地点に浦氏の墓がある。中央に宝篋印塔壱基、桃山期頃のものを石造の垣で取り囲み、正面に石製両開き扉を仕込んである。その両側に高さ七尺位の石板碑二基がある。碑面に額縁を彫り出して、中央に戒名を陰刻してある。碑面上端、両側に各二つ、正面一つ計五つの繰型があって、同じ幅に造ったから、頂上外側にも同一の繰型が現出している。その東方に入口があって宝篋印塔や板碑の後方にある空き地に続いている。これを取り囲む様に、二十五乃至三十に近い略洞大の石碑が建ててある。一々の法名、氏名を読む時間がないので割愛したが、浦氏重臣の墓であるかも知れない。
本堂は木造瓦葺き、高平家建で大型の方である。
本尊 釈迦牟尼仏 座像 寄木造玉眼入 法量 総高さ二尺三寸、髪際高さ二尺〇二、肩高さ一尺四寸、肩張九寸五、胴張七寸四、肘張一尺九寸、胸奥四寸五、腹奥五寸七、膝奥一尺二二、膝高 寸
螺髪は、鋸挽した後に、一つ一つの角を「のみ」で飛してあるので、一寸見には要領を得ているが、決して完好とは言えない。髪際から五段目に赤い珠を入れてあるから、これから上を肉髻とすると、四と九になる。頭の形は異様に角張って、且つ高いために尊容を悪くしている。従って顔も細長く見え、特に頬が硬い。大衣は通肩に着用している。衣皺は深く彫ってある。然し、刀法に特徴はなく、唯平面に三角形の溝を造ったに過ぎない。両手は結跏した中央に定印を結んでいる。両足は衲衣に包まれている。足そのものの姿は良くない。今、胡粉に鼠色を混ぜた物を水で練って塗布してあるので、甚だ見劣りがする。用材は案外に厚くて約八分位はあると見受けた。下端から一寸位上に底板を張り詰めてある。此処に墨書があるが難読であるから写真を撮った。引き伸ばしの上で読み直して書くことにする。今見た状況では江戸末期の作と思われる。
台座は大仏型であるが、収容力の関係で反り花を短くしてある。最高は八角形の箱台で、一片の長さ一尺三寸、高さ六寸二分である。蓮座は下から、框径二尺四寸、高さ二寸四分、反り花高三寸一分、請花高さ五寸、径二尺で、花弁は金箔押である。
脇侍 文殊菩薩と普賢菩薩の立像である。寄木造玉眼入 法量 総高さ三尺六四、髪際高さ二尺九三、肩高さ二尺五二、肩張七寸二、胴張四寸八、肘張九寸五、腰張七寸、裾張七寸、胸奥三寸七、腹奥四寸八、髪際から頂上まで六寸五、面長三寸五、面巾三寸五、耳張四寸二、面奥四寸三
頭上に高い宝髻を置き、面相、体格共に力の籠もらない刀法である。肉体露出部は金箔押で、褌は藍色を塗ってある。台座は大仏型で、請花高さ二寸三分、径九寸五、反り花高さ一寸五、下の径一尺二寸、框高さ一寸、径一尺三寸五分、箱台一尺五七角、高さ五寸
本尊光背は頭光と擧身光と連続したもので、外側に火炎を付けてある。頭光径一尺〇五、火炎から火炎まで一尺二八、擧身光巾一尺六八、火炎から火炎まで一尺九寸、頭光下まで一尺五寸、外での頭光の接合点の高さ一尺七寸五、右はいずれも江戸末期の作であろう。