私の祖父は一本釣りの漁師でわが家には常にテグスがあったことを記憶している。そのテグスの行商と一本釣りの伝播についての記述が『海と列島文化9瀬戸内の海人文化』(小学館)に掲載されているので紹介しよう。
豊臣秀吉の海賊禁止令が出されると、海賊行為を行う漁民は厳しい取り締まりを受け、このため家船民は、尾道の吉和、三原の能地、忠海の二窓に移った。そして、彼らは、これらの根拠地を起点として、漁業権の設定されているところ以外の海を渡り歩いて漁業を営み、瀬戸内海のあちこちに、枝村をつくっていった。
一方、家船以外の漁民は、急速に定着民として、大名の領国支配に組み込まれて行く。その体制側屁の漁民の組み込みの制度こそが、舸子浦制である。舸子は加子、水主とも書かれたが、領主が兵士や食料・武器などを輸送したり、江戸時代以降は、参勤交代のときに、大名や家臣を送迎するにあたって、徴用する漁民に舸子としての地位を与え、舸子が属する浦を舸子浦に指定して、その浦の漁場での網漁を自由に行わせた。一般に舸子浦制と呼ばれるものは、それまで機動性に優れしばしば海賊行為すらはたらいた漁民を陸に縛りつけ、農民と同じように、ある区域を為政者からもらい受けるものであったため、浦を石数で表し、それを浦石とか浦立銀などと称して、漁業正税として漁民から取り立てた。藩としては、税金を取り立て、有事のさいの水軍力を確保できるというメリットがあった。逆に、漁民にとっては、舸子浦として浦石を納めることによって、漁業の権益を保証されたのである。(P428)
こうして漁民は浦に定住することとなり、これまでの移動性の高さは一時期、影をひそめることになる。しかし、その後の漁民の人口増加は、漁民をふたたび陸から押し出していく。そのひとつの方法は「小職漁」である。小職漁を行う漁民は、「大職漁」と呼ばれるタイやハマチ、イワシ、アジ、サバ、サワラなどの大網漁の網子として働くものの、大職漁の漁期が終わると、自分の小職漁に従事した。小職漁は、大阪湾ではケタ網、テグリ網、播磨灘から水島灘ではゴチ網、芸予諸島ではテグリ網を行った。ところが小職漁は、地先の海面が大職漁のテリトリーのため、漁区を越えて出漁し、専用漁場に属さない、あるいは入漁税などを納める必要のない、広い自由な海に進出し、しだいに出先に枝村をつくるまでにいたった。(P429)
もうひとつの方法は、一本釣漁の普及であった。とくに阿波(徳島県)堂浦の一本釣漁民がテグスを使った漁法を各地に伝えてから、瀬戸内海各地に、一本釣りの漁村が増加した。高橋克夫によれば、一本釣りの釣糸には、古くは藤カズラ、絹糸、麻糸などが使われたが、江戸時代中期、中国南部の野性の楓蚕からとった天然テグスが、長崎を通して輸入される漢方薬の包装の紐に使われるようになったところから、この繊維が釣糸に転用されるようになったという。テグスは、表面の滑らかさや耐久力等の点で、従来の釣糸とくらべてはるかに勝っていた。そして、このテグスを広めたのが、阿波の堂浦漁民だったのである。(中略)彼らははじめのうちは漁民として出稼ぎに出かけたが、のちには、出先の村の人々が彼らのテグスの品質のよさと漁撈技術の高さに注目するようになり、やがて、テグスの行商を専門に行うようになった。また、テグスの行商には、カミユキとシモユキと呼ぶ2コースがあり、4月から11月ごろまで、行商人は家族同伴で船住まいをしながらテグスを売ったといわれている。図245はカミユキ、シモユキの経路を示したものであるが、彼らは、2、3軒の漁師の家があればどこへでも出かけるほど、内海をくまなく移動して商売を行った。このような行商は、昭和47年(1972)まで、堂浦の人々の生活をささえつづけたのである。(P429~430)