山内譲著『豊臣水軍興亡史』(吉川弘文館)が刊行された。早速購入して読んでいくと、浦(乃美)宗勝が頻繁に登場するので紹介しよう。
「毛利元就の三男隆景が継承した小早川家も早くから水軍を擁していた。その主力は忠海警固衆の乃美宗勝である。宗勝は、安芸郡瀬戸島(呉市)を本拠とした乃美賢勝の子であるが、のちに豊田郡浦郷(竹原市・三原市)を本拠とした浦氏をついだ人物である。したがって正しくは浦宗勝というべきであるが、本人は、本姓の乃美を好み乃美宗勝と名乗ることのほうが多かったようである。
その宗勝が忠海の賀儀城(竹原市)を本拠として周辺に散在する諸勢力を統率したのが忠海警固衆である。宗勝が臣従したのは三原の小早川隆景であったから毛利氏に直接使えた児玉氏とは事情が少し異なっているが、小早川隆景が毛利一族の一角を構成していたのは周知のことであるから、忠海警固衆も毛利氏にとっては、信頼性の高い有力な水軍であった。
宗勝の武勲もいろいろなところで確認することができるが、その大きな功績の一つは、瀬戸内の海賊衆と毛利氏の仲介の役割を果たしたことである。厳島合戦のときに、態度をはっきりさせない来島村上氏との交渉にあたったのは、他ならぬ乃美宗勝であった。宗勝と来島の村上通康との間でどのようなやり取りがあったのかは定かでないが、元就をイライラさせながらも、最終的に宗勝は、来島村上氏の水軍力を毛利方に取り込むことに成功したのであり、その功績は大であるといえる。
また毛利氏は、永禄11年(1568)に、当時宇都宮・土佐一条両氏の連合軍の攻撃を受けて苦境に陥っていた伊予の河野氏を救援するために、小早川隆景らを大将にして大軍を派遣したが、このときに中心的な役割を果たしたのも乃美宗勝である。前年の十月に、当時河野軍の主力として活動していた村上通康が突然死去したが、宗勝はかつての盟友の死を深く悲しみ、伊予渡海後には、喜多郡の大津城や八幡城(ともに愛媛県大洲市)を切り崩すなどの大功を立てている。
このように芸予諸島の村上諸氏が毛利氏との間に何らかの関係をもつときには、必ずその間に乃美宗勝の姿があった。そのような意味で宗勝は、毛利氏の直属水軍と独立性の強い海賊衆の媒介の役割を果たす人物であったといえよう。」(『豊臣水軍興亡史』P6~7)