「江戸時代には朝鮮国は李氏朝鮮といいました。朝鮮国はオランダや中国のような通商だけの相手国とはちがって、正式に国交のある国でしたし、貿易も密接に おこなわれていました。古代から室町時代まで、日本と朝鮮とは平和外交をつづけていましたが、戦国時代末期、天下の支配権を手にした豊臣秀吉は朝鮮侵略を おこないました。いわゆる文禄・慶長の役です。この戦争が収拾されたのちの平和外交の回復から、朝鮮通信使がはじまりました。」(『人づくり風土記34広 島』池田一彦「朝鮮通信使と鞆ノ浦」)
朝鮮通信使は、慶長12年(1607)から文化8年(1811)の204年の間に12回来訪しており、瀬戸内海はその行路となっています。
安芸国では蒲刈(三之瀬)、備後国では鞆が御馳走所として接待の場所となっています。
当時の蒲刈での饗応料理(3汁15菜)が最近復元され、テレビでも放映されました。(詳しくは、上田正昭編『朝鮮通信使-善隣と友好のみのり』柴村敬次郎「朝鮮通信使と下蒲刈島での接待」を読んでください)
通信使『使行録(旅日記)』には、当時停泊したところも記載されており、そこに忠海の名前が出て来ます。
三原歴史民俗資料館の新畑末男氏の作成した年表によると、忠海に停泊したのは元和3年(1617)、天和2年(1682)、享保4年(1719)、延享5年(1748)、宝暦14年(1764)の5回となっています。
元和3年の記録である『扶桑録』の8月13日の日記に「北に小碇島、唐船島、上碇島を過ぎ、南に大碇島を過ぎて、人定(午後10時)のときに安芸地方の忠 海すなわち但多于微に到着し、船上で泊まる。可留島から三瀬までは5里で、三瀬からここまでは11里であり、日本語で忠海を但多于微という」、翌14日に は「忠海を離れて3里くらい行くと、北に大きな村が眺められるが、これが備後州の三原地方で酒で有名である」と記されています。
また寛永元年(1624)の記録である『東槎録』には「左岸に大きな村があった。すなわち安芸州の忠海であり、日本語では段段吾味(タンダノミ)という」と記されています。(新畑末男『朝鮮通信使関係資料』)
また、誓念寺山門に掲げてある「願海山」の額は、朝鮮通信使の書であると言われています。