忠海高校同窓会事務局には、同期会を開くための名簿を求めたり、家族のルーツを調べたり、本や雑誌の記事を書くための取材などさまざまな方々が訪れます。『味潟海』では前号から「千客万来」と題して、同窓会事務局を訪れた人々を紹介するコーナーを設けました。
『作家・松岡譲への旅』という本を上梓した中野信吉氏が同窓会を訪れました。松岡譲は夏目漱石の長女の筆子と結婚し、その娘が『夏目家の糠みそ』というエッセイを書いた半藤末利子です。中野氏はこのエッセイを読んで芥川龍之介・久米正雄・菊地寛らと共に文学活動を開始した第4次『新思潮』の同人でありながら文学史から抹殺された松岡譲に強い関心を抱き、その足跡を辿ったのがこの本です。そして松岡譲の無二の親友が御手洗の出身で忠海中学校の先輩である今田喜智三なのです。
中野信吉氏が忠海高校同窓会を訪れたときのことが、『作家・松岡譲への旅』の中に出て来るので紹介しよう。
「忠海高校は今田喜智三の出身校である忠海中学の後身である。私は忠海高校へ電話を入れた。学籍簿の閲覧などは無理との返事だったが、同窓会会報は同窓会事務局にあるとの返事で、事務局の電話番号を教えてもらった。折り返し電話した私に、同窓会事務局の中谷さんは、『今田喜智三は大正2年に忠海中学を卒業されています』と明確な返事をされた。今田喜智三に関して、確かな資料のなにもない時だっただけに中谷さんの返事は、私を強く勇気づけるものだった。私は改めて中谷さんに、松岡譲と今田喜智三に対する自分の思いなどとともに、新たな資料がないかと問い合わせ、さらに御手洗訪問時に途中下車をする旨の手紙を書いておいた。
出発前日に入れた電話では、『大したことは判らないですが』の返事をもらってもいた。呉線、忠海駅で下車した私は、徒歩で忠海高校へ向かった。国道を西へとってやや長い坂を下っていくと、海沿いへ出る。海を左手に見ながら行くと、運動場があり校舎があった。こじんまりした校舎が海を前に、ひっそりとあった。
校門を入って取っ付きの学校事務局で教えられた同窓会事務局は、校舎と別棟のレンガ色の講堂のような建物の中にあった。
ドアを開けると、ふっくらとした中年女性が迎えてくれた。それが中谷さんだった。電話の印象と違い、やわらかい物言いだった。前日の電話のせいか待たれていた様子で、応接テーブルの上に古い書籍類が置かれていた。
私はあいさつもそこそこに、本題に入った。まずは、『同窓会会員名簿』である。創立100周年を記念に1997年に発刊されたもの。第14回 1913(大正2)年3月18日卒業(45名)の欄に、今田喜智三 東京都杉並区善福寺2-29とあり、最終学歴として慶大(理)と書かれてある。(中略)無造作に思える親切で、今田喜智三に繋がる資料が提示されたのである。私は、小さくない興奮を感じながら、名簿の記事を迫った。『これが卒業アルバムです』と言って、中谷さんはテーブルに積まれた一冊を抜き出した。『えっ、写真があるんですか』『ええ。大正2年だからね、名前がはっきり判らないんですけど、この人じゃないかと思うんです。名前を配した薄紙を重ねてみると、これが今田さんになるんですよ』と、アルバムを開いた中谷さんは、写真の中の人物を指し示した。
中段のほぼ真中、制服制帽姿の今田喜智三である。腕を後ろに回し、胸をやや反らし、左前方に顔を向けた姿である。静かに意思を秘めた印象の顔である。(中略)
ほぼ90年前の写真で今田喜智三と対面した私の心は、打ち震えるのである。さらに私を狂喜させたのは、背の綴じも脆くなった『忠海同游會雑誌』の分厚い本である。中谷さんによると、『同游』は一時期続いた同窓会会報誌の名前で、現在は変更になって使われていないとのこと。これはその綴りである。多くの付箋が挟まれたページを慎重に繰りながら、『今田さんは柔道部にもおったようやね』と、中谷さんは言った。『同窓会誌に今田が書いた記事などないでしょうか』の私の問い合わせを、中谷さんは調べてくれていたのである。『同游』には、卒業生氏名等とともに、運動部の大会記録なども載っていて、柔道部と庭球部に所属した今田喜智三の名前があり、さらに喜智三の書いた『春期庭球大会』の対戦報告記事が載っていた。松岡譲のテニス仲間だった今田喜智三が、中学時代に柔道をやっていたことは新しい発見である。また、対戦報告とは言え、今田喜智三の文章は貴重な資料でもある。『これくらいしかないですよ』と言われる中谷さんに、それらの資料のコピーをお願いしたのは言うまでもない。途中下車が、思わぬ宝の山の発見となったのである。」
ところでこの文章の中で、松岡譲は夏目漱石の長女筆子と結婚し、その娘が半藤一利の妻と紹介されているが、向井敏著『残る本残る人』(新潮社)の中に半藤一利著『漱石先生ぞな、もし』についての書評があり、松岡譲に関する一文があるので紹介しよう。
「平成4年という年はエッセイ集の当り年だった。……季節も移ったことだし、そろそろ種切れかなとつぶやいた矢先にまた一冊、半藤一利の『漱石先生ぞな、もし』(文藝春秋)がふらりとあらわれた。著者の半藤一利は『週刊文春』『文藝春秋』などの編集長を歴任した腕っこきの編集者。昭和史の研究でも一家をなし、その方面の著作も多いが、この人がじつは漱石の義理の孫に当る人だということをこのエッセイ集ではじめて知った。
……当然『漱石先生ぞな、もし』には、義理の祖父と孫という間柄ならではの親身な漱石論や、漱石の実の孫にあたる半藤夫人を通じて仕込んだゴシップ、それに穿鑿魔をもって任じる著者自身が掘り起した秘話珍談が山と盛られ、ページを繰るごとに読者を驚かせる仕掛けになっている。……のっけからそれが出てくる。著者の書架に『坊つちゃん』『二百十日』『草枕』の三篇を収めた豪華本があって、岳父松岡譲の遺品だそうだが、ためしに繰ってみると、これがなんと『坊つちゃん』の作中人物のモデルにされた松山中学の二人の先生、『坊つちゃん』役の弘中又一と『赤シャツ』に擬せられた横地石太郎の書き入れ本。小説の登場人物やエピソードの虚実に関する考証と思い出が全篇にわたって書き込まれていたという。のちに、この本は松岡譲が横地石太郎から借りていたものとわかり、横地家の遺族に返されることになるのだが。」(『残る本残る人』P164~165「坊つちゃんと清の関係」)
さらに竹原市内の本屋と竹原書院図書館で夏目漱石と松岡譲に関する本を探したら次の4冊を見つけたので併せて紹介しよう。夏目鏡子述・松岡譲筆録『漱石の思い出』(文春文庫)、石原千秋編『漱石珠玉の言葉・生れて来た以上は、生きねばならぬ』(新潮文庫)、石原千秋著『漱石と三人の読書』、半藤一利著『漱石先生お久しぶりです』。