広島の古書店『アカデミイ書店』で木村毅編『瀬戸内海・中国路』(昭和34年発刊)という本を見つけ、購入した。この本の中に、かつてこの忠海再発見で紹 介した河東碧梧桐の『瀬戸内海ルンペンの記』が掲載されている。その中に「黒滝観音」という一文があるので、ここに転載しよう。
「忠海に着いた一浴後であった。町の北を覆うて立つ、岩の隆々とした山の頂に御堂らしいものが見える。目測して二百米許り、きのふからの酒浸りを一掃する元気も湧いて、下駄ばき、尻からげで、傘を杖に出た。
前は海、あたりは砂丘偃蹇してゐるので、如何にも孤岸崢峽たる感じだ。案内に立ったのは羽白氏兄弟、裏にある白滝山に対して、之を黒滝といふ。近年下界 にあって娼家の主人たる夫妻、頓に発心して山に登り、観音堂を営む。道を修め、憩亭を作り、黒滝観音の名、漸く近郷に鳴るよしを告ぐ。
道半ばを登りて一休す。四国へ通ずる木ノ江水路を中心にして、左右に蟠屈する群島、大小高低黒茂白禿、十字に錯綜する運河を隔てて相呼び相送り、さながら我を王侯として、膝下に拝跪する観がある。正に水路のステーヂに群島の乱舞である。
今しがた、ほの明るい切れ間を見せてゐた梅雨空の雲は、右手に尾を引いた、底知れぬ黒雲を呼んで、重苦しい暮色を垂れる。ドンヨリ油を流したやうな水 に、遽かに威儀をつくろった島々の影が、暗澹たる沈黙に落ちてしまふ。嫣然と微笑した、なごやかな投影が凄気を帯び、威嚇を示す。
雨になった。木の濺ぐ音さへが耳立って来ると、遠くの島から、さも天翔けるものでもあるのか、一刷毛一刷毛手際よく刷き消されて行く。見るまに忠海の町までが、ぼんやりボカされてしまう。
掌中の玉を奪はれた思ひ、が、そこには厳粛と云ってもいい景観の印象があり、頭が洞ろになった空虚さではなかった。
頭上の観音堂に着くと、下界から天上へ発心した主人が渋茶を汲んで来る。晴れた日には、西は呉から南は四国、五十に余る島々が一望に集まって来る。追手 を旭にうけた真帆片帆が、木ノ江水路を狭しとむらがる朝など、何とも知れぬ悦びが胸一杯になる、と発心主人の罪亡ぼしとも思はれぬ言葉。
今に指定されんとする国立公園予定地が、瀬戸内海を胴切りして、小豆島、屋島を中心に局限しようとする不合理を、せめて厳島まで延長せよと主張する広島 県民の意向は所以あるかな、竹原、忠海の前に一衣帯水螺集し蟠居する瀬戸内海中の多島の中心、この景観を除いて、何の瀬戸内海国立公園ぞやと云ひたくもな る。
我々も発心する時があったら、この辺の高い山の上へ天上したい、と異口同音であった。」(木村毅編『瀬戸内海・中国路』河東碧梧桐「瀬戸内海ルンペンの記」P3~4)
俳人河東碧梧桐の眼を通して、黒滝山からの瀬戸内海の眺望が実に良く表現された一文であるので、ここに紹介した。この文章は昭和7年に書かれたものである。