小山祐士は『日本の幽霊』を書き上げるために忠海に滞在している。「私の演劇履歴書(四)」にはその時のことが記述されている。
「九月もなかば過ぎると、手の痛みもいくらか楽になったので、また調べることもあり、現地に滞在して執筆することに決め、オリンピック騒ぎを逃れるようにして、東京を立ったのは、オリンピック開会式の四日前の十月の六日であった。
三原の佐藤光男たちが見つけてくれた家は、竹原市忠海町の町はずれの海岸に面した家で、佐藤が『尾道から呉の間を車を飛ばして、ハンテングしたのですけれど、こんな家はありやんせんぞ』と言ったように、まん前に毒ガスの島・大久野島の見える、静かな環境の、別荘のような素晴らしい家であった。『部屋などお貸ししたり、人様のお世話などしたことはないので……」と、再三断られたが、東京で大学教授をしておられるご令息の話がきっかけになって、やっと下宿さしてもらうことが出来た。広い邸宅に家族の方は高校の校長をしておられる御主人と奥様の二人っきりで、私の借りた二階の部屋の、南の窓からは大久野島の向こうに四国の山脈が見え、西の窓は、人気のないお宮に面していた。そのお宮には、天然記念物に指定されているバベの大樹が繁り、大きな石の鳥居は海の中に建てられていた。瀬戸内海の絶景を買い切りにしたような二階の部屋で、私は毒ガスと睨みっこをしながら、昼夜の別もなく机に向い、疲れるとお宮の境内を抜けて岬の端にある岩風呂に行った。徹夜で仕事をしても、岩風呂に行くとすっかり疲れが抜けるので、私は毎朝六時に灯がつくのを待ちかねるようにして岩風呂に出かけた。海藻を敷き積めた洞窟の蒸し風呂の木の机に寝転がって、まわりの人たちのおしゃべりを聞き、海の上に突き出して作られた二十畳敷きほどの休憩所で瀬戸内の朝焼けを見るのを日課のようにしていた。岩風呂には、土・日以外の日には夕方の五時頃からも出かけたが、土地の浴客たちは毒ガスの話は誰もしたがらなかった。土・日の日や雨の日は、重箱の弁当を持った近在の漁師や百姓の方たちが詰めかけるので、三、四十畳敷きもある室内の広い脱衣・休息所は裸の人たちで、まるで宴会場のような騒ぎであった。五分間も岩風呂に入っていると晩秋の十一月でも、一時間位は身体じゅうがポカポカしているので、海に入って游いだりした。男も女もみんな裸で、二、三度岩風呂に入って半日休養して行くのである。私はこの岩風呂で土地の方言を覚えた。
下宿では家族同様に親切にして戴き、この岩風呂のおかげで、腕のほうも痛みが軽くなり仕事は非常にはかどった。
私が滞在中に池田勇人が首相を辞任したが、首相は忠海中学出身の土地の人であっただけにその当座は岩風呂に行っても首相の噂話で賑わっていた。」(『小山祐士戯曲全集第四巻』P514~515)
この文章には東京オリンピック当時の宮床や岩風呂の様子が生き生きと描かれている。
この『日本の幽霊』は第2次訪中新劇公演で上演された。この時の訪中団の副団長が女優の杉村春子だった。杉村春子は『日本の幽霊』の井上菊子の役で出演している。小山祐士・杉村春子著『女優の一生』(白水社)は小山祐士と杉村春子の対談をまとめた本だが、この本の中に「『日本の幽霊』と周恩来」という一文があるので、紹介しよう。
杉村 小山さくの『日本の幽霊』の最後の幕で、原爆症に冒されているわたしの役の菊子の台詞に「科学兵器の恐ろしさと、核兵器の全面的使用の禁止を訴えるということは、とてもいいことよ」という台詞があるでしょ。カーテン・コールの終わったあとでね、周恩来首相が楽屋においでになってね、出演者たちにね「中国も核兵器を持ったが、これは対抗上、平和を保つ必要上持ったので、絶対に中国から先に核兵器を使用するようなことはしない、ということを堅くみなさんに約束します。もし、このことについて疑問があれば、直接、わたしに手紙ででも質問していただきたい。必ずわたしがお返事をいたします」といって、核をもたなければならない理由を一時間以上にわたって熱心にわたしたちに語られたんですよ。
小山 そうだそうですね。
杉村 あのながい困苦にみちた解放戦を経て、あの広大な中国を背負っていらっしゃる首相が、その一挙一動を世界が注視している人が、一日じゅう、ひと息入れる暇もないような強行スケジュールをさいて、わたしたちの芝居を見てくださって、第1回目の『郡上の立百姓』の日もご覧になったのよ。観劇のあと、休憩もとらずに、わたしたちの控え室においでになって、ひとりひとりに熱心に語りかけておられる姿を見てね、わたしは、この人こそ、ほんとに民衆を率いることのできる人だと思い、感動で胸がいっぱいになりましたね。このことだけでも、わたしにとっては第2次訪中公演すばらしかったと思いました。どの芝居も成功しましたしね。
小山 中国に行ったたくさんの人たちから、中国の劇作家のかたからも、手紙をもらって、その話を聞いたときには、わたしも同行すればよかったと残念に思いました。カーテン・コールにも、拍手のなかを周恩来さんたち、舞台に上がってきて出演者七十何人の団員のひとりひとりに、花束を贈られて、握手をして回られた、ということを聞きましたので。
(杉村春子・小山祐士著『女優の一生』P346~348)