広島県立美術館リニューアル・オープン20周年記念展「彫金家清水南山-広島が生んだ近代金工の巨匠」が開催された。その最終日に広島に行く機会があったので、鑑賞した。その図録を購入して読んでみると、清水南山の「生い立ち」の記述があり、清水南山は忠海にあった豊田置豊田小学校に通学したことが書かれているので紹介しよう。
「清水南山(本名亀蔵)は明治8(1875)年3月30日、広島県豊田郡能地村(現在の三原市幸崎町能地に父・鹿太郎と母・梅の長男として生まれた。清水家は地元でも屈指の豊かな農家で、南山は同家に数十年ぶりに授かった男子で、特別注文の武者絵の大幟を立てるなどしてその誕生が盛大に祝われたと言う。周囲の愛情と期待に包まれて何不自由のない幸福な幼年時代を送っていたが、5歳のときに雀の巣を見ようと実家の実家の大きな藁屋根に登り、転落して足に重症を負い、この事故が、農家の跡取りから転じて美術の道へと進む契機の一つになったと考えられている。
さて当時、豊田郡の郡役所があった忠海村は人・物・情報が行き交う活気に満ちた瀬戸内の中枢的港町で、新時代の動向に敏感で、広島県内でも有数の教育熱心な土地柄であったと言う。明治19(1886)年の学校令により忠海村に豊田郡置豊田小学校が開校し、尋常科(4年)・高等科(4年)及び小学校卒業生を対象とする副学科(3年)という他に例を見ない課程が設けられた。南山は同年、地元の能地小学校から同校に転校し、高等小学校を明治21年に、副学科を24年に卒業した。能地村の自宅から西隣する忠海村の学校まで凡そ8キロメートルの道中を、祖父の薦めで『南無阿弥陀仏』を唱えたり、得意な数学の問題を解きながら、朝は暗いうちから不自由な足で歩いて通ったと言う。当時、高等教育施設である尋常中学校は県内2か所しかなかったが、これに相当する課程の副学科においてもトドハンターの代数学(マクミラン商会発行)やウィルソンの幾何学、パーレー万国史など英語の原書を教科書として用いた高度な教育が行われたようで同科は明治30年に県内3番目の中学校に発展的に解消する。
南山はこうした環境で基礎学力や精神性が培われ、学力試験(明治16・17・18年)や学業成績(明治17年)、図画コンクール(明治20年)などでしばしば表彰されており、その秀才ぶりが伺われる。」(『彫金家清水南山-広島が生んだ近代金工の巨匠』展図録P5~6)
旧制忠海中学校の前進である豊田郡置豊田小学校の教育内容をよく表した文章なので紹介した。