『忠海高校創立八〇周年記念誌』に高橋玄洋や平山郁夫と同級だった大多和章六の学生時代の思い出が掲載されている。
「八十年の歴史の中でも、文芸部の誕生はユニークなものの一つであろう。脚本家として活躍中の高橋玄洋さんが生みの親で、玄洋さんはすでに小説の習作に、 演劇に才器を発揮していた。西陽をうけた南館二階の教室で、『エデンの海』の作者、若杉慧先生のお話を聞いたことも懐かしく想いおこされる。東京芸大教 授・日本画家の平山郁夫さんが、得意の素描力で、黒板に先生の似顔絵を描いて、茶目っ気たっぷりの生徒であったのもこの頃のことである。」(大多和章六 「懐かしかった私の青春前期」『忠海高校創立八〇周年記念誌』P224~225)
高橋玄洋は、『興味津々』という著書のなかで、平山郁夫の思い出を次のように語っている。
「中学の頃の同期に院展の平山郁夫がいる。広島県の忠海中学という白砂青松の浜に面した学校で、校門を出て田圃の道を抜けていくと勝運 ─寺という禅寺があり、島出身の彼はこの寺に寄宿して小坊主(現住職)の家庭教師のようなことをやっていた。
彼が上野の美校にすすみ、教師の推薦で彼の後釜の家庭教師役に下宿したのが私であった。この勝運寺では、ことごとに前任者平山と比較対照されて、その点で は随分ワリを食ったが、その年の夏休み、彼が帰省の途中、寺に寄り、ふたりして夜を徹して語り合った時のことは今も忘れることが出来ない。
彼もこの夜のことは忘れられないらしく、先年、『文藝春秋』の同級生交歓でそのことを書いていたが、私にも青春の一ページとして生涯忘れられない一夜であった。彼は炎の中に立つ不動明王の絵と、彼の故郷の島の蜜柑山を描いた絵を持って帰っていた。
そのふたつを壁に並べて、熱っぽく絵の道について喋ってくれた。私も当時は太宰治にあこがれる文学青年であり、芸術、文学、人生などに青くさい議論を並べ て飽くことを知らなかった。彼も被爆者であり、私も二次感染で悩んでいたので人生観についてもおのずと通じ合うものがあったのかも知れない。彼は沢山の人 間の無惨な最期を目撃していたし、私も多くの屍を焼く仕事をしたのだが、それ以上に、そんな運命がいつ自分の身の上にやってくるか判らない恐怖にもおのの いていた。
炎のなかに立つ不動明王は、彼の怒りの鏡であったし、静かな瀬戸内の風景には彼の平和への祈りが不可能となった至福への愛惜となって現れていたように思えてならない。
後年の彼の法隆寺からシルクロードへと溯る活躍をみるとき、私にはいつもあの日のことが思い出される。終戦時の経験とその後遺症の苦悩は、彼を語るとき欠かすことの出来ないものだと思う。」(高橋玄洋『興味津々』P63~64「わが良き友よ」)
高橋玄洋は、勝運寺を舞台にした『あんたがたどこさ』というテレビドラマを書き、森繁久彌主演で放映された。すでにこの『忠海再発見』でも取り上げたように、平山郁夫は、この勝運寺での座禅の体験が自らの画業の原点となっていると書いている。