瀬戸内海について書かれた2冊の本を読んだ。1冊はかつて「芸予要塞と大久野島」で紹介した西田正憲著『瀬戸内海の発見』(中央公論社)もう1冊は柳哲雄著『風景の変遷-瀬戸内海』(創風社出版)である。
『風景の変遷』には、「瀬戸内海という名称はいつ頃から用いられてきたのだろうか。」という問題設定をして、つぎのように答えている。
「国際日本文化センターの白幡洋三郎助教授によると、明治時代になって来日した西欧人がこの海を“InlandSea”と呼び、それを日本人が翻訳して瀬 戸内海と名付けるまでは、瀬戸内海という名称は存在しなかった。瀬戸内海を初めて旅した西欧人が、この海をエーゲ海などと比較することにより、多島海とし ての瀬戸内海美を“発見”したようである。‥‥‥明治以前の日本人は伊予灘、燧灘など地先の海をひとつのものとして認識してはいても、それらをまとめて瀬 戸内海として認識する生活上の必要がなかったのかもしれない。これに対して明治になって来日した西欧人達が『瀬戸内海』を“発見”出来たのは、そこに住む 人々の生活の視点から離れて、旅行者として俯瞰的に瀬戸内海全体を眺めることが出来たからなのだろう。‥‥‥明治44年に著された小西和の大著『瀬戸内海 論』によれば、日本の文献に瀬戸内海という名称が初めて出現するのは、明治5年に出版された『大日本地誌提要』の中である。」(柳哲雄『風景の変遷』 P122~123)
と書かれている。
『瀬戸内海の発見』の第6章には、国立公園誕生の経緯が書かれている。
「国立公園候補地の調査が、内務省衛生局保健課によって、内務省嘱託の林学博士田村剛を中心に1921(大正10)年ごろから行なわれる。この調査の初期 の1922(大正11)年にはすでに国立公園の候補地16ケ所が選ばれていた。このとき、瀬戸内海は小豆島・屋島として候補にあげられている。‥‥‥そし て1932(昭和7)年12ケ所の国立公園が選定された。この内定は広く伝わり、世間においては事実上の指定とうけとめられた。このとき『小豆島・屋島』 は『瀬戸内海』へと変貌し、国立公園の区域は、当初の小豆島、屋島から備讃瀬戸を中心とする地域に拡張された。田村剛は著書『国立公園講話』のなかで次の とおりしるしている。“瀬戸内海についても、小豆島、屋島だけではそれほど有利でないとする向きもあったが、新たに登場した鷲羽山と鞆仙酔島、そして多島 海としての島々を加えて、これは立派なものとなり、結局、(中略)12箇所が正式候補地と決定した。”当時は識者のなかにも、瀬戸内海国立公園を小豆島と 屋島に局限する不合理を批判する人があった。1932(昭和7)年、河東碧梧桐は、紀行文『瀬戸内海ルンペンの記』で、まだ正式指定のない瀬戸内海国立公 園について次のとおりふれている。“今に指定されんとする国立公園予定地が、瀬戸内海を胴切りして、小豆島、屋島を中心に局限しようとする不合理を、せめ て厳島まで延長せよと主張する広島県民の意向は所以あるかな、竹原、忠海の前に一衣帯水蝟集し蟠居する瀬戸内海中の多島の中心、この景観を除いて、何の瀬 戸内海国立公園ぞやと云ひたくもなる。”」(西田正憲『瀬戸内海の発見』P196~197)
河東碧梧桐は、高浜虚子とともに正岡子規門の双璧と称された俳人で、虚子が「ホトトギス」により伝統派を称するのに対し、新聞「日本」により、 1906(明治39)年から11年にかけ、2度にわたり、全国を遍歴、この間従来の俳諧趣味を排し、個性的な主観と感覚による写実主義を唱え、形式も伝統 を破って五五三五を基調とするいわゆる新傾向俳句を提唱し、当時俳壇を風靡した。(河出書房『日本歴史大辞典』)
その碧梧桐の新傾向俳句が大きく飛躍し頂点に達したのが「無中心論」で「安芸竹原の旅宿に荻原井泉水を迎え、中塚響也の『雨の花野』一吟をめぐっての論議に端を発したのがいわゆる無中心論の起こりである」(立風書房『鑑賞現代俳句全集』第一巻P90)
「松山出身の碧梧桐は広島にも多くの足跡を残しており、1937(昭和12)年、65歳で死ぬまでに前後10回近くも訪れている。」(河村盛明編『広島文学ノート』P222)
そのような中で「竹原、忠海の前に一衣帯水蝟集し、蟠居する瀬戸内海中の多島の中心、この景観を除いて何の瀬戸内海国立公園ぞや」という感想が生まれたのであろう。