竹原書院図書館で山崎善啓著『幕末・明治初期の海運事情』(創風社出版)という本を見つけた。この本の中に幕末・明治初期の忠海港についての記述があるので、紹介しよう。
安芸竹原の忠海港は、三次藩の蔵米輸出港であり、三次藩が廃止された後も、西廻り航路の廻船の寄港地として栄えた港である。文化・文政期には、奥羽・北陸・山陰を始め、九州の各地域・瀬戸内海・紀伊・尾張に至る各地の船が多数出入りしていた。
忠海に江戸屋の『御客船帳』(羽白家文書)及び胡屋の『御客船帳』(荒木家文書)が残っている。これは幕末期における瀬戸内地域の廻船の動向を示す興味ある客船帳であり、文化期(1804~)から明治10年代(1877~)にわたって、入津した廻船の年月日・船主名・船頭名・取扱月日などが記されている。どちらも地域・国別に多少の違いはあるが、西廻り航路を中心として発達した港が多く記載されている。
江戸屋の方は得意先の廻船として讃岐が最も多く、915隻となっている。胡屋の方は伊予船が最も多く、930隻に達しており、四国との頻繁な取引がうかがえる。このことから推察して忠海の問屋は、中国・四国の瀬戸内海沿岸諸国(なかでも特に北四国地域)、及び西廻り航路筋の諸国との取引が活発に行われていたものと考えられる。(『香川県史』第四巻P493)(『幕末・明治初期の海運事情』P14~15)
幕末ころの帆船による航海には、どの程度の日数を要していたのであろうか。愛媛県史(社会経済3、P682)には、『南海瀬戸日記』(嘉永三年1850年)による北前船伊勢丸の航程を記述している。これを現代語で要約して紹介しよう。
5月18日 下関出帆
19日 朝より中ノ関(現防府市)沖を走る
20日 上ノ関沖を通過、夕刻津和地島で潮待ち
21日 昼七ツ時(午後4時)伊予松山沖に潮待ち
22日 興居島の瀬戸を通る。昼の潮に乗るべく彼方の宮崎沖で潮待ち
夕潮に乗るべく御手洗港沖で潮待ち、夜四ツ半時(11時)北風で走る
23日 夕刻忠海に潮待ち、同夜忠海出帆
24日 朝糸崎で潮待ち、同夜出帆
25日 多度津沖で潮待ち
26日 朝丸亀港、昼与島で潮待ち、同夕出帆、同夜大槌小槌島で潮待ち
27日 朝大槌出帆、屋島沖を経て夜小豆島で潮待ち
28日 昼小豆島出帆、夜淡路島松ノ浦で潮待ち
29日 兵庫へ入港
帆船は、潮待ち・風待ちの航海であるから、下関から兵庫まで11日間要しているが、これはむしろ順調な旅程であろう。もし、風雨に遭遇すれば、おさまるまで港に避難しなければならず、もっと長期の航海になったであろう。(『幕末・明治初期の海運事情』P17~18)