過日、忠海高校同窓会会報編集委員会で大多和章六氏にお会いしたときに、「私の忠海中学校時代に隣の席に座っていた生徒に川手健という人がいた。峠三吉な どとともに被爆者運動に生涯を捧げた人だ。」というお話しを伺い、1985(昭和60)年8月6日の『中国新聞』に掲載された「それぞれの昭和史その3原 爆に生きて」という川手健の紹介記事のコピーをいただいた。大多和章六氏は前にもこの忠海再発見で紹介したことがあるが、平山郁夫氏や高橋玄洋氏と同級生 である。彼らに共通しているのは、その創作の原点にヒロシマの被爆体験があることであるが、彼らの同級生に被爆者運動の先駆者・川手健がいたことはあまり 知られていない。その川手健について先述の『中国新聞』の記事から紹介してみよう。
1952(昭和27)年8月10日、広島市猫屋町の知恩会館で被爆者の立場から平和運動を推進していこうという「原爆被害者の会」が結成された。広島で初 めて生まれたこの被爆者組織に集まったのは20人余り。幹事には吉川清、佐伯晴代、内山正一、上松時恵、峠三吉の5氏が並んでいる。事務局長は広島大学生 だった川手健。事務所は原爆ドーム下にあった吉川清の店とした。手記集「原爆に生きて」の編纂委員の一人でもある川手は、同集に「半年の足跡」のタイトル で被害者の会結成から手記集編集に至る道程をつづっている。組織はなく、発言の場さえ持たなかった被爆者の一人一人を訪ね、街頭ビラで結成を呼びかけ、手 記集発行をはじめとする平和運動に力を注いだ。
1960年(昭和35)年4月、東京・深川の小さな旅館で29歳の短い生涯を閉じた彼の名は、峠三吉らとともに、長く人々の記憶にとどめられるべきものが ある。 広島県林務課職員を父にもつ川手は、1931(昭和6)年2月13日、広島県賀茂郡西条町で生まれた。父の転勤に伴って、少年時代は県内各地を数年ずつ 転々としていた。
1945(昭和20)年8月6日、旧制広島一中3年に在学中、動員学徒として東洋工業に行っていた。広島市内の建物疎開作業と一日交代で動員されており、 そのローテーションが川手には幸いした。衝撃が去った後、川手は広島一中1年生だったいとこを捜して、燃えさかる広島市内を歩いている。いとこは数年生き 延びたが白血病で亡くなり、川手も入院までは至らなかったが、黄疸に悩まされした。戦後は父の勤務地であった忠海に行き、忠海中学に編入。さらに広島高校 (旧制)、広島大学文学部へと進んだ。(中略)
1949(昭和24)年、日本製鋼所広島製作所の大量人員整理をめぐる大争議のオルグに行き、逮捕されている。作家の山代巴は、その日鋼争議の公判廷で初 めて川手を見た。後に、峠三吉のもとに出入りする彼を峠から紹介され、「原爆に生きて」の編集までスクラムを組むことになる。山代巴は川手健について次の ように回想している。
「アメリカの占領政策でものが言いにくい状況もあったけれど、川手さんは、時代に対して深く沈黙している圧倒的多数の被爆者を組織化し、さまざまな訴えを どう広げてゆくか、というところで苦心していた。被爆者問題というのは、その後に生まれてくるさまざまな人々の中に生かされねばならない。つまり被爆者 は、原爆以後の人類の生き方を暗示したといえるし、そのことを一般に広めようというのが、原爆被害者の会の組織化であり、手記集発行という、私や川手さん の方法だった。」(中略)かつての学友らの印象では、決してこぶしを振り上げてアジテーションをするタイプではなかったという。「個の存在」に真剣に耳を 傾け、被爆者の多様な訴えを汲み上げ、一つの組織に集約させてゆく仕事に、彼は最後まで執着していたようだ。(『中国新聞』1985(昭和60年8月6日 『それぞれの昭和史その3原爆に生きて 被爆者の中で上』から抜粋)