夢街道ルネッサンスと日本風景街道に登録された町が集まるひろしま西部街道交流会が草津(広島市西区)で開かれた。草津を訪れてびっくりしたのは、町並みや路地の風景が忠海とそっくりなことだった。
そこで草津と忠海の歴史的な共通点を調べてみると、忠海が小早川水軍の提督浦宗勝の居城があったと同様に、草津は毛利水軍の提督児玉就方の居城があり、戦 国最強の海上軍団の拠点であったということだ。そして江戸時代にはいると草津も忠海も三次浅野藩の蔵屋敷や代官所が置かれ、三次藩がなくなったのちも瀬戸 内海交易の拠点として発展している。その名残が寺社や商家、路地や建物に色濃く残っている。
この草津と忠海のかかわりすなわち児玉就方と浦宗勝について、森本繁著『戦国最強の海上軍団・毛利水軍』(新人物往来社)から抜粋してみよう。
児玉就方と浦宗勝が先ず活躍するのは厳島合戦である。
「老巧59歳の毛利元就は、謀略によって35歳の陶晴賢を厳島へおびき寄せ、世紀の大海上戦が、宮島大鳥居沖で始まる。弘治元年9月21日、晴賢麾下2万 有余の大軍を宇賀島十郎左衛門や大浜・桑原・神代・沓屋・浅海氏らの率いる5百余艘の警固船に分乗させて玖珂郡今津・室木の浜から厳島へ向けて解纜した。 厳島までは海上わずか5里であった。輸送船団は、その日のうちに厳島沖に到着し、当夜は、そのまま海岸に停泊して、翌22日朝になって大元浦から上陸し た。……このとき元就は安芸吉田に帰城して陶軍の動向をうかがっていたが、陶軍の厳島進駐を耳にすると、心中ひそかに快哉を叫び、すぐさま23日、先鋒隊 を厳島対岸の地御前に出張させ、全軍に厳島渡海を布告した。……24日に元就自身、毛利隆元・吉川元春麾下の毛利軍主力3千5百の精兵を率いて郡山城を出 発した。
9月27日に毛利水軍の軍港である安芸草津に着陣。草津で小早川隆景と、その麾下の将兵が来り会したので、毛利軍の総兵力は4千余人となった。それでも、 陶晴賢の軍勢2万余騎に比べれば5分の1に過ぎず、その水軍力も飯田義武、児玉就方、山県就相、福井元信らの指揮する佐東川内水軍5、60艘、小早川隆景 配下浦宗勝・末長景道らの指揮する沼田水軍6、70艘および備後因島の村上吉充が指揮する兵船若干艘に過ぎなかった。とても陶晴賢麾下周防大島水軍の警固 船5、6百艘の艨艟にくらぶべきもない。
そこで元就は、このたびの厳島合戦を、巨大なる陸上戦艦厳島に登載した2万有余の大軍を海上から奇襲攻撃によって殲滅する海戦と見立てていたので、その勝 敗の鍵は毛利水軍の増強にあると考え、伊予水軍の来援を懇請させた。小早川隆景に命じて、浦宗勝を特使として伊予の能島に派遣し、能島村上氏の武吉(23 歳)と来島村上氏の通康を味方に誘わせた。そこで宗勝は、武吉が自分の姉の孫であることと、その武吉の妻が来島通康の娘である縁故を利用して極力両者の説 得に努めた。」(P25~27)
次に浦宗勝と児玉就方が共に戦ったのが毛利・大友両氏が海上出争った門司城争奪戦であった。
「弘治3年(1557)の防長経略完了後、毛利氏が北九州経略の拠点として利用したのが、下関の対岸にある豊前門司城である。(中略)小早川隆景の武将浦 宗勝は、麾下の水軍を率いて門司と小倉の中間に敵前上陸を敢行した。西進して門司城へ肉薄して城中に乱入し、城兵数百の首級を斬獲して城を奪い取った。と ころが、敗残の大友軍は、その後もなお門司付近に集結して隙をうかがい、門司城奪回を企図していたので、宗勝は川内水軍の提督児玉就方と結んで門司城付近 の大友軍と豊後のルートを遮断した。麾下の水軍部隊を率いた宗勝と就方の両将は、豊前の東岸中津へ出動して門司と豊後との糧道を断ったので、ついに大友軍 も屈服して門司城の囲みを解いた。(中略)10月10日、大友軍は毛利水軍の神出鬼没な活動にもかかわらず、ますます戦備を充実し、門司城に向かって総攻 撃を開始した。隆景は城を出て頑強に防戦したが、浦宗勝と児玉就方の率いる毛利水軍も、大友軍の側背に上陸して、大友軍の明神尾陣地を切り崩した。つい で、逃げる大友軍を追撃して、大里で戦い、大勝を博した。宗勝が敵将伊美弾正左衛門と鑓を交わして一騎打ちを演じ、負傷にも屈せず、敵を斃したのは、この ときである。就方もまた敵陣に斬り込んで重傷を負うた。10月26日になると、大友軍は再び門司城に来襲して、毛利軍を脅かしたが、隆景は城兵を率いて門 司の八幡浜で要撃した。就方もまた海上から麾下の水軍をもって、これを応援し、撃退した。このように、毛利軍が再三にわたる大友軍の門司城襲来を撃退する ことができたのは、隆景が籠城軍を率いて防戦につとめたとき、毛利水軍が敵の側背に上陸して挟撃の態勢をとったからである。大友軍に毛利水軍と対抗できる 水軍力がなかったことが、優勢な陸上軍の存在にもかかわらず、門司城の奪回を不可能にした。」(P54~57)