忠海高校の西側の岬に『エデンの海』の記念碑が建った。この建碑事業の一環で映画『エデンの海』の上映会を開催した。忠海では、この映画の主演女優の藤田 泰子さんをお招きし、400名がこの映画に酔った。さらに忠海高校100周年記念式典が挙行された日に竹原で、この映画の助監督を勤めた西河克己さんと当 時この映画に出演しのちに主演男優の鶴田浩二と結婚した中尾照子さんをお招きし、上映会を開催したが、竹原市民館いっぱいの1000名の観客が集まった。 西河克己さんは、当時助監督であったがその後監督になり、『エデンの海』を2回映画化し、メガホンをとっている。
1993年に、西河克己さんの映画人生を回顧した『西河克己映画修業』という本が刊行されている。その中に『エデンの海』撮影のさまざまなエピソードが語られているので紹介してみよう。
「-下加茂での最後の作品が中村組の『エデンの海』でのちのち西河さんが、『エデンの海』を2本撮ってますが、これが映画化された第一作目ですよね。
『エデンの海』というのも雑誌に発表されたシナリオですね。もともとこれは芝居なんです。ぼくは芝居そのものは見ませんでしたけれど、植草圭之助が小劇場 でやった芝居なんですよ。角梨枝子がやって、当時無名だったけど、芝居で評判だったかです。それを映画のシナリオに書いて発表されたんですね。これはシナ リオも評判だったんです。東宝の竹井諒というプロデューサーが買って持っていたんです。
植草圭之助が黒沢明の協力者としてすでに名が売れていましたから、竹井諒さんがこれを持って松竹に乗り込んできたというかたちになるんです。それで京都で 撮るということになったんですが、一番困ったのが、植草圭之助が芝居で主役をやった角梨枝子が好きで、角梨枝子が主役でなければ渡さないと言い張ったんで す。金は払ってあるんだというんだけれど、金はともかくシナリオを渡すことはできないと大変がんばってしまったんですね。竹井プロデューサーもどうも困っ たといっているんで、ぼくと中村さんと二人で植草さんのところへ説得に行ったんですよ。
それが妙なところに住んでいたんですよね。大崎と品川と大井町と三角地帯の中に、あの一角の隅のほうに国鉄の社宅みたいなところがありまして、そこに住ん でいたんです。当時は汽車が石炭を使うものだから、黒いような土でしたね。お母さんと二人で住んでいましてね。夏でしたね。お母さんが裏でトマトを作って いました。なにもありませんからって、冷蔵庫なんてないんですから、トマトを絞って、生のジュースで出してくれた。新鮮なんだろうけれども、ぼくはトマ トって全くだめで食べられないんですよ。これを飲まなくちゃ大変だと(笑い)。中村さんは飲むんですが、ぼくはこのトマトジュースを一世一代の大芝居、 がっと飲んだ。それでもだめだったんですよ。ついにだめだった。
おとなしい人だったけれどもしぶとい人で、どういうわけか角梨枝子じゃなくちゃいやだと、だめでした。それで竹井諒さんがなんとかしますからって、いつの 間にかそれがなんとかなったんです。角梨枝子じゃなくて、藤田泰子という人になったんですよ。(中略)この時代、ぼくは大部屋の女の子とはほとんど口をき かなかったんですね。普通、助監督なんてスターはけむたいから大部屋の女の子と親しくなるけれど、ぼくは全然そうじゃなくて、大部屋の女の子とはほとんど 口をきかなかった。ぼくの下のセカンドについた番匠義彰君が二枚目なんですね。後に原節子のお姉さんと結婚した人なんですが、早稲田のグリークラブの キャップで英語が話せるんですよ。英語がしゃべれてピアノがひけるんですよね。番匠君は若い子について詳しいから、彼に人選をまかせて、彼が選んだ文谷千 代子(後の小林正樹夫人)、山田英子、中尾照子の三人を連れて行きました。これがきっかけで、後に中尾は鶴田夫人になったんです。
広島の忠海というところに長いこといたんです。若杉慧という人の原作なんですが、この人の実話なんですね。忠海の女学校の先生をしていたんですよ。現実の モデルになっている女学校が現存したんです。山の上に寮みたいのもあって、すべてが小説のように現存していたんです。この学校の特徴は校庭がそのまま砂浜 につながっているんですよ。そういう撮影条件の良さが作品にも影響して、さわやかな、真面目な作品という印象でしたね。これは中村さんにとってプラスだっ たです。」 西河克己さんは、当時の忠海のロケーションが、この映画の良さを作り出していると高く評価しているが、私たちもこの映画を通して良き時代の忠 海に出会うことができるのである。