「浦宗勝の居城跡は宮床浦(竹原市忠海町)の東の端にある。海上につき出した標高二十五㍍の小丘で、城跡の西は現在忠海西小学校の敷地になっているが、そこがむかしの船溜まりの跡と思われる。
文政二年四月の『国郡志御編集下調書』によると、この丘は御留山と呼ばれ、『四方ナガラ山嶮ニシテ高凡十六間、山上平地、昔ハ三方海、西の方地続、其後北の方塩浜ニナリ、東の方大川の砂出テ白砂トナル、南ハ海岸嶽々トシテ登ルベキ処ナシ』と記されている。
この城跡の北方に曹洞宗の寺があり、勝運寺というが、これは浦宗勝が元亀元年(1570年)から建立に着手し、周防の泰雲寺を本寺として天正九年(1581年)に伽藍を完成させた寺院である。
この寺には浦宗勝の画像二幅(陣中衣のものと殿中衣のもの)と軍用櫃が二個保蔵されてあるが、軍用櫃は朝鮮の役のとき小早川隆景が弾薬を浦家に送って来たものだという。しかし、宗勝が亡くなったのは、この朝鮮の役の最中、筑前名島においてで、『国郡志下調書』の浦宗勝公縁由には、つぎのごとく書かれている。
『保元乙卯年平清盛ノ父忠盛、山陽南海ノ賊ヲ捕フル時、安芸国砂田郡乃美浦ニ軍船下向、碇舶シ、賊ヲ平ゲ、依テ郡安途シ、祝シテ忠ノ字ヲ加ヘ、仍チ忠乃美ト称ス。其頃迄ハ皆ナ海岸ナリ。後乃美ヲ改メ海ノ字トナス。小早川ニ属シ、床浦ニ築キ、居住シ、床浦ノ浦ヲ取リテ改メ、浦兵部ノ丞宗勝ト称ス。高参萬参千石ヲ領ス。武勇絶倫ノ将トゾ申伝。此将則チ当寺ノ開基ニテ境地田畠山林堂宇山門等悉ク寄附セラレ、元亀弐年創立、天正九年十月伽藍落成ス。寺領三百貫附与サレ、大檀越ノ開基タリ。文禄元年壬辰年秀吉公兵ヲ遣シ朝鮮ヲ征ス時、宗勝公出征中途、異域ニ於テ病ヲ発シ、主命ヲ受ケテ本朝ニ帰リ、筑前立花山ノ麓ニ憩ウ。病重クシテ終ニ此ニ逝ス。文禄元年九月二十三日世齢六十有六歳、法名天與勝運居士ト号ス。為メニ禅刹ヲ造立シテ宗勝寺ト号ス。而シテ今尚存立ス。公尊体ハ同寺ニ葬ル。遺髪ヲ当寺ヘ贈ラレ、石碑ヲ営ミ安置セシムルネノナリ』
すなわち、宗勝の遺体は、かれが母の菩提を葬うために建立した香椎村(福岡市東区下原)の真福寺に葬られ、遺髪が忠海の勝運寺に納められたのである。
筑前香椎村の真福寺は浦宗勝の没後宗勝寺と称されるようになった。その寺の裏山に、今も宗勝の墓がある。」(森本繁『歴史紀行瀬戸内の海賊衆』P316~318)