『Grandeひろしま』2016冬号の「アーサーの言の葉」に最後の石風呂について「失極楽殿」と題して、次のような文章が掲載されたので紹介しよう。
もう今からでは遅すぎる。世界最高の風呂が11月6日をもって66年の歴史に幕を閉じたのだ。
「世界最高」というランキングは、ギネスによるものでもミシュランによるものでもなく、ぼくの勝手な基準で決まった。だが、これまで石風呂に連れていった友人たち、家族の者もみんな驚嘆して、いたく気にいったことは間違いない。もっと多くの人に言い触らして、もっといっぱい案内して、自分自身もっと回数多く入ればよかったのに、と悔やんでいる今日このごろ。(中略)
おととし、わが母親と妹と二人の甥たちが来日して、二週間ほど旅行した。ぼくはツアーガイドをつとめたが、前もってみんながどこに行きたいか、なにに興味があるのか、電子メールであれこれ確かめた。そのとき、忠海の石風呂も提案に盛り込んだ。もちろん英語でやりとりしていたので、「石風呂」を英訳する必要があって、最初は少し迷った。というのは、和英辞典を引いたらstone bathが出てきた。素直な訳に見えて実は誤訳だ。「石造りの浴槽」というイメージで伝わってしまうので、ぼくはcave bathと訳した。「洞窟風呂」なら岩乃屋の構造はつかめるから。
旅程を組む段になって、全員cave bathへ行きたいとなったので、広島観光の三日間のうち半日を石風呂に当てた。(中略)広島に入り、ドームを仰いで、資料館を見学、市内の面白スポットと宮島を楽しみ、石風呂も体験した。忠海では海水浴、そしてウミホタルと戯れたりもして、満月に照らされる大久野島と、その向こうの大三島もっくり眺めた。
帰国の前夜、東京のホテルでみんな集まっておしゃべりしていたとき、甥たちは石風呂のことを面白がって振り返っていた。翌朝の成田空港でも、甥たちのみならず妹も母も「また石風呂に行きたい」と、次回の日本ツアーの目的地の筆頭になっていた。アメリカにみんなが戻ったあとのやり取りでも、岩乃屋がたびたび話題にのぼり、その印象がとびっきり強烈だったことはわかる。甥たちにとって、きっと日本というのは「石風呂のある国」と位置付けられているのではないか。ぼくにとっても、石風呂はそれくらい大きかった。幕を閉じる一週間前に忠海高校の体育館で、「最後の石風呂を囲む会」が開かれて、稲村さんはそこで六十六年間の歩みを語ってくれた。敗戦後の厳しい生活の中で、お父さんは船乗りをやめて陸に上がり、もともと瀬戸内海の沿岸地域に根づいていた海草風呂の文化を復活させて、人びとの疲れをいやした。つまり昭和の初期に、いったん途絶えてしまった穴風呂のやり方を、お父さんは経験者から教わり、試行錯誤を繰り返して発展させたわけだ。
その当時の写真も何枚か見せてもらったけれど、洞窟の外の看板には「極楽殿」と書かれたものもあった。ぴったりのネーミングとぼくは納得して、そして終わった今では「失極楽殿」を噛みしめている。しかし「岩乃屋」の歴史を冷静にとらえると、途絶えてしまったものをよみがえらせた実例だ。
今回の「終わり」を「始まり」にすることができるかどうか、自分が試されている思いだ。(『Grandeひろしま』2016年冬号VOL.15・P8~9アーサー・ビナード「アーサーの言の葉・失極楽殿」