竹原書院図書館で専修大学の舘鼻誠氏の『中世武士団安芸小早川領域における石塔の基礎的研究-宝篋印塔・五輪塔を中心に-』という本を借り出した。その中に中世の忠海について興味深い文章があったので紹介しよう。
「忠海の町は、海に向かって舌状にのびるミョウジョウ(明星)の丘の先端直下に鎮座する荒神社を境に東西に分かれる。その西側の谷の奥に位置する浄居寺は、近世は浄居庵と呼ばれ、古くは仏通寺末派の禅宗寺院であった。その後、焼失して荒廃したが、近世になって忠海の勝運寺(曹洞宗)の第四代雲応和尚によって中興され、以後、勝運寺の末寺になったという(文政二年国郡誌下しらへ書出帳)。寺の背後の斜面には墓所が広がり、その登り口や歴代住職の墓所周辺に、宝篋印塔や五輪塔の残欠が散見する。なかでも歴代住職の墓所にある五輪塔の火輪は四面に五輪塔四方と思われる梵字を彫り、忠海では最大の五輪塔となる。」(P237)
「このように浄居寺には、室町期にさかのぼる忠海では最大の五輪塔があり、荒神社を境に東西にわかれる忠海の東側地区では、もっとも古い石塔が存在する場所となる。また浄居寺から海に向かって下っていけば、近世の忠海の中心となる宇津(忠海中町三~四丁目)につくが、ここは大きく山側に土地がはいりこみ、中世は湊であったと推察される。おそらくこの湊につどう人々の信仰空間が浄居寺(浄居庵)、あるいはその前身の禅宗寺院であったのだろう。ただし五輪塔に続く石塔が見あたらず、そのほかは戦国末期以降の宝篋印塔や五輪塔ばかりで、数も少なく、質も良いとはいえない。埋もれている可能性も考えられるが、この石塔の空白期間は、寺が焼失して荒廃したという伝承を裏付けるものではないだろうか。」(P239)
忠海の宇津は、中世は大きく入り江になって湊を形成していたと推察される。その入り江の東に位置する稲荷神社の一番奥に、宝篋印塔と五輪塔の寄せ集め塔が建つ。(P240)
『文政二年国郡誌下しらへ書出帳』によると、この場所には「新蔵坊」という修験が住み、いまの稲荷神社は、この修験が広島の白神社の稲荷明神、また一説には備前から勧請したという。すでに一六世紀末頃には入り江を見下ろすように小さな寺が建っていたのかも知れない。(P241)
忠海の町には、海に向かって舌状にのびるミョウジョウ(明星)の丘の先端直下に鎮座する荒神社を境に東西に分かれる。(文政二年国郡誌下しらへ書出帳)。これはかつてミョウジョウの丘がさらに海側につきだし、海岸線もいまよりずっと内陸の旧道(誓念寺の前の通り)付近にあって、地形的にも東西を分けていたことに由来するだろう。
そのミョウジョウ(明星)の丘の東斜面に位置する脇という土地の一角(標高30メートル付近)に、宝篋印塔1基と、五輪塔7基ほどが建ち並ぶ。この石塔は、かつては散乱し、一部は埋もれた状態だったものを、2005年7月に忠海郷土史研究会の有志によって整備されたものになる。そのほか残欠をあわせると、少なくともこの場所には、1基の宝篋印塔のほか、14基の五輪塔があったことになり、忠海ではもっとも多くの石塔が建てられた場所となる。しかも忠海では数少ない戦国期以前にさかのぼる火輪があることも注目される。
石塔が建ち並ぶ斜面のすぐ下、南側にある平壇には、かつては寺があったとも伝え、『文政二年国郡誌下しらへ書出帳』に「阿弥陀寺 高見町の岡にあり 浄土宗 誓念寺抱」と記される「阿弥陀寺」が、この廃寺に相当するらしい。おそらくこの石塔群も、かつてはこの寺の背後の斜面に造られた墓所に建ち並んでいたのだろう。(P242~243)
いま寺跡から海にむかって170mほど小道を下れば、かつての海岸線に相当する旧道に出る。その手前の民家のところにも寺があったと伝え、これは『文政二年国郡誌書出帳』に「観泉寺 高見町の岡阿弥陀寺の下にあり」と記される「観泉寺」に相当するだろう。また阿弥陀寺のあったところから25mほど東にむかった誓念寺のすぐ西側は「ガンギ」と呼ばれたというから、このあたりに忠海の湊のひとつが造られていたのだろう。『国郡誌下しらへ書出帳』には「西風強く」ともあり、そうなるとミョウジョウの丘に遮られた西側は、湊としても適地だったと考えられる。さらに東180mほどのところには、海から地蔵院にのぼる南北の道があり、その起点近くにある薬師堂の石段にも石塔が多く残る。 こうした点から推察すると中世は、脇にむかう南北の道と地蔵院にむかう南北の道を軸線として集落が形成され、誓念寺の裏手の山側の道がこの二つの軸線をむすぶ東西の道となり、その南側、「ガンギ」の地名が残る誓念寺周辺に湊が形成されていたのであろう。
そのなかにあって脇の石塔群は、時代的にも、数量的にも、質的にも、忠海では群を抜いている。地蔵院のふもとにある薬師堂にも石塔はあるが、時代的には戦国期のもので脇の石塔より新しく、石の質も劣る。この点を重視するならば、忠海の東側地区(荒神社の東側)の中心は、脇にあったという仮説も成り立つだろう。さらに言えば、中世の忠海の中心は、この丘の麓あたりにあったのではないだろうか。
中世の忠海に関しては、史料が少なく不明な点も多いが、『小早川家文書』に収録される文明一九年(1487)八月二日付けの継目安堵御判礼銭以下支配状写に「参貫文 是は返弁仕り候、忠海二郎右衛門方より借銭」とあり、小早川氏は上洛にあたって忠海の「二郎右衛門」から三貫文を借り、それを返済している。この忠海二郎右衛門とは、忠海の海運に携わる問丸のような存在だったのだろう。また天正九年(1581)の『村山家檀那帳』にも「たたのミ(忠海)一合 帯 五明 のし 羽白屋三郎左衛門尉、麻 帯 五明 のし 酒屋藤左衛門尉」とあり、羽白屋・酒屋という有力商人の存在を確認できる。(『広島県史Ⅴ』)こうした有力商人が脇の寺を氏寺として石塔を建てたとも考えられる。(P249~250)