『文政2年国郡志御編集下しらへ書出帳』(『竹原市史』第3巻史料篇1)には、祇園祭について、つぎのように書かれている。「6月(旧暦)7日14日祇園 祭、この両日は若者が神輿を守り奉じて町内を廻る。よって家並み掃除をして神輿を待つ。築地の社を旅殿として7日に御幸し、14日に還御する。」
『広島県文化百選②まつり・行事編』には、「忠海の祇園みこし」が次のように紹介されている。「独特のみこし回しが呼び物の開発八幡神社の祭りである。み こしを担いでただ練り歩くといったありきたりなものでなく、男性的で荒々しい。勢いよく右や左に傾ける「座り担ぎ」「立てり担ぎ」、空中高く差し上げる 「とっちゃげ」、みこしの腹を見せるように片側の担ぎ棒を宙に突き上げて回す「たて回し」。重さが600キロもあるとは思えないほど自在に操り、若衆の心 意気を示す。(中略)この祭りの主役が『こっ(輿守)さん』と呼ばれるこの年20歳を迎えた若者たち。
先輩の指導を受けて、寄付集めから祭り当日の采配まで一切を取り仕切る。若者はこの役目を終えて、初めて一人前として認められるという一種の成人儀式でも ある。当日は午前6時にお旅所を出発。町内の各戸を回って勇壮なみこし回しを披露し、商店などではみこしごと店内に入り込み、頭から清酒をかけてもらう。 若衆ばかりでなく、先輩の力自慢が応援する。午後3時からは駅前大通りで模範演技が行われる。黒山の人垣の中でベテランたちが型を披露し、いよいよ主役の 登場。赤、青、黄色のモールなどでできた猿と呼ばれる縁起もので飾り立てた法被を着た『こっさん』が、威勢よくみこし回しを見せ、猿をちぎって見物人にば らまき、祭りは最高潮に達する。『まわす祇園で若衆が勇む
いきな西若東若 こっさんかわいや背中の猿に 娘心が鈴となる』と祇園祭り歌にも歌われる自慢の行事。この後もみこしは町内を回り、夜もふけた午後10 時、神社に帰る。」さらにメモとして、祭りのいわれが紹介されている。開発八幡神社は貞観18年(876年)に豊前宇佐八幡宮を奉斎して祭ったと伝えられ る。文化3年(1806年)に火災にあったが再建され、港町として栄えた忠海の住民に尊ばれてきた。この祭りは脇宮の八坂神社のものだ。みこし回しは、祭 神の須佐之男命に退治されたオロチがのたうつ様を模して150年くらい前に始まったといわれ、昭和48年(1973年)市無形文化財に指定された。『猿』 は『これを持てば一年中無病息災』といわれ、珍重されている。」
祇園祭は、京都八坂神社の祭りとしてあまりにも有名だが、瀬戸内海地方に残る祇園祭も、このメモにあるように、京都から勧請した八坂神社(祇園社)の祭り として行われ、京都祇園祭の影響を受けている。ところで忠海の祇園祭の「猿」は、一体どこから来たのだろうか。寿岳章子著・沢田重隆絵『京の思い道』とい う本の中に忠海の祇園祭の「猿」と同じ猿が、「括り猿」として紹介されている。これは丹波八木の山寺帝釈天のもので「何しろ庚申さんなのでそこいら括り猿 だらけなのも、いかにもみんなのお寺らしくてほほえましい。」という寿岳さんの文章と沢田さんの絵が掲載され、絵の解説には「帝釈天本堂内の巨大な括り猿 とミニ括り猿。愛らしき猿たち、ぶうらん、ぶうらん。」と書かれている。つながりがあるかどうかは解らないが、興味深いので紹介した。