ニッカウイスキーの創業者・竹鶴政孝は、竹原町の竹鶴酒造の3男として生まれ、家業を継ぐため大阪高等工業(現在の大阪大学)の醸造科に入り、ウイスキーに興味をもってから、ただ一筋にウイスキーづくりだけに生きてきた人です。
その竹鶴政孝が『日本経済新聞』に連載された「私の履歴書」に若干の補筆を加えて発行した『ウイスキーと私』という本のなかに忠海中学時代のことが書かれているので、ここに紹介したいと思います。
中学は忠海の中学校に入った。当時の忠海中学の制服は、海軍の水兵服と同じ型、赤・黄・みどり・青の胸のリボンの色で各学年を表わしていた。そして江田島が近いせいか、海軍兵学校に入る生徒も多かった。 中学には2里(約8キロ)の道を仲間といっしょに通った。
子供の足で毎日往復4時間の道のりはさすがに疲れた。前の晩に朝飯、昼飯の2食分の弁当をつくってもらって、朝家を出ると途中の峠で兄といっしょに朝飯の弁当を食べるのである。 家で食事をしないのは朝が早すぎて女中がたいへんだという母の心づかいからだった。
2学期になると、私の過労を心配した母が、学校と家との中間ほどの福田という村に一軒家を借り、私と兄は2人で自炊生活を始めた。 自炊となると大変だった。おかず類は、日曜日に実家から大量に仕入れるとしても、毎日毎日めしをたかねばならぬ。 そこで、兄と一日交代の炊事当番ということにした。御飯を1日8合たき、頭をひねって献立をたてた。季節の野菜をふんだんにとり入れ、あとは海へ行って魚 をとらえ、料理した。忠海の遠浅の海で泳いでいるタコをとった楽しい思い出は、当時めんどうくさかったランプ掃除とともに胸にきざまれている。1年の自炊 生活の後、兄が卒業してしまったので、私は忠海中学のそばの下宿に移った。兄と2人の福田村での生活が、私の人間形成というと大げさだが、自然の新鮮な味 を愛するという私の味覚、自分で料理するという習慣をつくりあげたといってよい。3年生から寮に入った。昔の中学の上下の規律は軍隊に近いきびしいもの で、寮はその縮図でもあった。下級生は上級生の身の回りの世話係でもあった。その下級生の中に元首相の池田勇人氏がいて、私の蒲団のあげおろしをしてくれ ていたのもなつかしい。 池田さんの感想では「竹刀をもって部屋を見回りに来る寮長の竹鶴さんは柔道でもならしており、こわいという感じだった」そうである。 大蔵省から政界に進んだ池田さんと、ウイスキーづくりに専念した私の友情は、なくなられるまで続いた。池田さんは私のつくったウイスキーのファンでもあ り、池田さんからニッカをすすめられたり、もらったりした人も多いと聞いている。また外国の高官が日本にきたときは、ニッカのスーパーを自慢げに飲ませる のが池田さんの楽しみの一つであった。 英国のヒューム副首相が来日したとき、「50年前、頭のよい日本の青年がやってきて、1本の万年筆とノートで、英国のドル箱のウイスキーづくりの秘密を盗 んでいった」と池田さんにいった話は一時有名になった。 IMFの総会のとき、各国の代表者など3千人のパーティがあったときも、「こんな国際的なパーティには、スコッチは1本も使うな」と命令し、国産ウイス キーを指定したのも池田さんだった。 イギリスのギルビー・ジンとニッカが提携したとき、発表のパーティをサーの称号をもつアーサー・ギルビーが来日してホテル・オオクラで行なったのが昭和 38年11月21日。たまたま総選挙の投票日で非常に忙しい日にも拘わらず、池田さんはわざわざ選挙本部を抜け出して出席してくれた。 彼は実に義理堅い男だった。 池田さんが病気になったとき、私は北海道余市の自宅でつくっている自慢のトウモロコシを自分で切ったり、馬鈴薯を掘らして、その中からさらに自分で選ん で、祈るような気持ちで届けたりしたが、残念ながらその池田さんはもういない。 そして、ともにした寮生活も遠い昔のことになってしまった。