『地震道中記』はこのようなかたちで、さらに清水、久能山、府中、鞠子宿、岡部宿、藤枝宿、島田宿、金谷宿、日坂宿、掛川宿、袋井宿、見附宿、浜松、舞坂 宿、荒井宿、本白須賀、吉田、五油(御油)、岡崎、池鯉鮒(知立)宿、鳴海宿、一宮宿、熱田神宮、名古屋、津嶋牛頭天王御社、桑名、四日市、雲津、加良須 大神宮、松坂さらに伊勢志摩紀州を巡って岸和田、堺、大坂へと歩いて宿々や道中の被害状況を記録している。さらに京都、四国の土佐、阿波、讃岐、伊豫の報 告と豊前小倉届書、藝州廣嶋届出、出雲大社地震聞出、さらに江州大津、粟津膳所、義仲寺、勢田、野路、草津、彦根、甲州鰍澤、加賀、越前の報告がなされて いる。この中から大坂の記述と藝州廣島届出を紹介しよう。
一、大坂、地震ハ霜月四日大ゆり。五日七ツ半時、大地震にて家々多く崩れたる事数知れず、人々六月十四日の地震の倣ひで、地震凌の為に小船に乗て川に出た り。其後にて海上沖の方にて、雷の如く鳴り出し、津浪となり、大浪高く打来り、寺島邊、勘助島天保山津浪にて人々皆屋根に上る。小船を借て家内の人々をの せたる者ハ大船の下敷となりて、死人ハ何千人とも数知れず。北国の米船、千石以上積の大船百艘余、津浪の為に内川へ押上けられ、道頓堀下、日吉橋より唐金 橋、幸橋、住吉橋の四ツ橋落て、大黒橋迄大船押上り、傳馬小船ハ大船の下敷となりて船破れ、死人数しれず、津浪ハ五日の夜五ツ時皆落ちたり。(後略)
藝州廣島届出
一、當四日辰の時大地震、五日申之時同断大地震、六七日もゆり、五日より七日迄廿五六度ゆり申候。其後も度々ゆり数どり出来不申候。人々居宅ニ居不申、皆野宿致し候。御城、御矢倉向大崩、町家大潰れ、死人尤も多く往来御橋々皆落申候。此段為被知申上候。以上
このように見てくると、東南海地震をいち早く記録した宮負定雄の記述が素早く安芸の国忠海に居る灌園坊に家元からの手紙や飛脚を通して伝わっていること がわかる。また、安政の大地震が、今日新潟中越地震やスマトラ沖地震とあわせてブッシュや小泉の政治に不安感を抱く人々に与えている不安と同様の不安を当 時の人々に与えていたことがわかる。明治維新の直前の日本と現在の日本が極めてよく似ていることを感じさせる『日記』ではある。
寒川旭著『日本を知る 地震』は嘉永7年の地震と津浪について次のように書いている。「東海地震の直後、伊豆半島から熊野灘にいたる地域を、最大波高が 10メートル近い大津波が襲った。そして東海地震と南海地震の発生に31~32時間の『間』が生じたことが、太平洋沿岸に住む人たちの運命に微妙な『差』 を生んだ。紀伊半島の南端にある古座の人々は、東海地震の津波に驚いて、着のみ着のままで山へ逃れ、飯を炊き夜を明かした。翌日、恐る恐る家財を取りに 戻ったところで南海地震に襲われたが、すぐに山にかけ登った。このため、前日を上回る大津波ですべての家が流れ去ったものの、人命が損なわれることはな かった。一方、四国の南西部では東海地震の津波は、わずかに『鈴波』と古文書に記録されている。紀伊半島や四国東部のように前触れとして認知できるほどの 『津波』はなく、出会い頭に南海地震に襲われたのである。『伊田の浜は一面荒磯の如くなり。小船数隻六反の畑へ打ち上げられ、八十石積の市艇が二艘までは まへ碇を引きながら打ち上げられ、人家は過半海上へ引き出されたり」(『小野桃斎の記録』)という惨状のなか、各地で多くの人が命を失った。
阪神淡路大震災、芸予地震、新潟中越地震などを体験した我々が歴史からまなぶ重要性を感じる記録である。