先日「伊能ウォーク」の一隊が竹原を訪れたことが新聞に報道された。「伊能ウォーク」というのは、日本地図をはじめて作り上げた人物・伊能忠敬の生涯をアピールして、伊能忠敬が測量して歩いた道をたどってみようというイベントである。
この「伊能ウォーク」の総隊長である渡辺一郎という人が最近ちくま新書から『伊能忠敬の歩いた日本』という本を出した。この本によると、
「伊能忠敬は、事業家として成功した人生にピリオドを打ち、49歳で引退。そのまま楽隠居せず、なぜか55歳から地図作りにのめり込む。伊能の測量は、深 川・浅草間での試行にはじまり、蝦夷地まで歩測した第一次測量から二度の九州測量まで、合計八回にも及んだ。」(渡辺一郎『伊能忠敬の歩いた日本』カ バー)
「その第五次測量で、芸予地方を歩いている。その時の測量風景を描いた絵画が、呉市の入船山記念館に寄託されている『浦島測量之図』と北川義明氏所蔵の 『御手洗測量之図』である。これらはいずれも芸州藩領の測量風景を描いたものである。芸州藩(浅野家)は伊能隊の瀬戸内の島々の測量には、大船団をくりだ して応援した。芸州の測量には57泊を費やしたが、うち14泊は伊予の領内に宿泊し、芸州領は43泊であった。瀬戸内海を行ったり来たりしたのであ る。‥‥‥芸州領の測量は文化3年3月9日からはじまっている。」(渡辺一郎『伊能忠敬の歩いた日本』P109~110)
千葉県佐原市にある伊能忠敬記念館の館長を努める佐久間達夫氏に『伊能忠敬測量日記』全6巻・別巻1という大作がある。その第2巻の中に、「3月19日・20日忠海湊泊」(P8)という記述があり、P95からP96にさらに詳しく記述されているので、ここに転載する。
「18日夜9ツ頃乗船。佐木島、小佐木島、割島、宿根島手分測、合測して19日7ツ前済。豊田郡田野浦初忠海の内能地迄測。別手と一同に7ツ頃忠海湊に 着。止宿綿屋清左衛門。家作よし。‥‥‥20日 朝より晴天。6ツ前三手分。測量出立。一番は忠海湊宮床ノ岬より逆測。忠海能地オホカ谷迄測。(昨19日 測の終)二番同宮床ノ岬より順に豊田郡高崎村、加茂郡下市村の界迄測。又棚橋島を測。三番は大久野島、小久野島を測。一番は9ツ後、二番は9ツ半後、三番 は8ツ後に忠海湊へ帰宿。‥‥‥21日 朝晴天。7ツ頃忠海湊出立。乗船して伊予国越智郡松山領大三島へ6ツ半後に着。」