『中国新聞』の文化欄「緑地帯」に大崎上島町出身の作家・穂高健一氏が「広島藩からみた幕末史」という記事を連載している。その要旨を抜粋しよう。
「広島藩が倒幕にどう関わり、どんな活躍をしたのか。地元広島の人にもほとんど知られていない。それは明治政府が広島浅野家の史料を封印したからだ。その上、原爆で鯉城も武家屋敷もなくなり、広島の幕末史は空白だといわれてきた。歴史作家も薩摩、長州、土佐の視点で小説を書いてきた。広島は加味されていない。」(「広島藩からみた幕末史①」)「広島での史料収集は難航した。原爆で失われたという。それでも資料館や郷土史家を訪ね、明治政府が発禁にした『芸藩史』にたどり着いた。広島藩が倒幕を最も強く推進した経緯が克明に記されていた。よく薩長倒幕といわれるが、事実誤認があると感じた。薩長同盟の根拠も、長州の木戸孝允が薩摩との会合を記した手紙と坂本龍馬のメモだけ。これを同盟締結の証しとするのは無理である。通説を覆す気持ちで、小説『二十歳の炎』を書いた。添えた副題も「芸州広島藩を知らずして、幕末史を語るべからず」とした。(「広島藩からみた幕末史②」)
この幕末歴史小説『二十歳の炎』の中、に船越洋之介が薩摩、長州、安芸3藩の連合をはかるために池田徳太郎の尽力をたのみに忠海を訪問する場面があるので紹介しよう。
緑の岬が、つづけさまに瀬戸内の海面に突き出てくる。やがて、海から屹立する奇岩の黒滝山がみえてきた。その山麓にひろがる忠海の町に入ると、回船問屋、魚問屋、製塩業、酒造業、皮革加工業などが軒を並べる発達した街だ。船越(洋之介)は街なかの医者の家を訪ねた。声をかけると、池田徳太郎の細君が出てきて、夫は病床に伏しているという。ぜひ急ぎ話があるというと血色の悪い池田が着流し姿で出てきた。懐かしがる挨拶を交わすと、暗黙の了解のように、ふたりは海岸にむかった。(中略)
忠海に帰った池田は、広島藩の勘定奉行に呼び出されて、「内密御用向」(芸藩の密使)を命じられた。ここから極秘の行動となり、池田の経歴は約四年間すーっと消えていく。戊辰戦争になると、新政府軍の参謀として頭角を現す。明治に入ると、いきなり藩主なみの地位ともいえる新治(茨城、千葉の一部)、島根、岩手、青森の県知事になっているのだ。内密御用向の池田は、応接掛の船越洋之介とかなり仲が良かった。船越側の資料から、幕長戦争の仲介役、神機隊の志和練兵所の見学において、点と点で、池田が出てくる。その池田が三度自殺を図ったことなども記している。
船越は階段状の雁木から、池田の不自由な足を気づかい、砂地の波打ち際まで降りてきた。難破船が朽ちた残骸で横たわる。ふたりの話し声はもはや磯で貝を採る海女にも、沖合の漁師の耳にも届かない距離となった。「慶喜は大政を奉還したが、状況は最悪だ。このままでは『建武の中興』の二の舞になってしまう。歴史はくり返す。そうさせてはならない」船越が語気を強めた。(中略)「慶喜公はよくぞ、大政を奉還したな。内心は、朝廷が受け入れても何もできないだろう、と高を括っておるのだろう。京都守護職・会津容保の藩兵、所司代の桑名藩など、その数は一万人以上の軍勢だ。薩摩藩と広島藩だけが御所を守る。それは無理だな」池田がごく自然に情勢分析をしていた。藩主密使の役柄で、世情については、江戸、京都、大坂、長州、薩摩の端まで掌握できている。「まさに、その通り。危機が迫っている。公卿のなかには怖気づいて、もう一度、徳川に政権を担ってもらおう、という者もいる始末だ。大政奉還の苦労も知らず、どちらに転ぶかわからない」「公卿は風見鶏だからな。軍隊など持っておるわけじゃないし、何もできない」「大坂の幕府軍が、いま京都へと集まっておる。それに、大坂湾には幕府の海軍が集結している。この目で確認してきた」船越は砂地を横切るカニをまたいだ。「榎本武揚の艦隊かな」「きっとそうだろう。このままでは、大政奉還を受け入れた朝廷を維持できない。徳川政権に後戻りさせたくない。幕府軍、会津・桑名に対抗できる軍事力が必要だ。慶喜は政権を朝廷に返還したが、征夷大将軍まで返還しておらない。そこでだ、薩摩、広島、それに長州の三藩で、最大限の軍隊を京都に上げる総論で大づかみの挙兵の話し合いはついている。各論で池田の力を借りたい」船越は熱い口調だった。すべてが、この池田にかかっている態度だった。(中略)さかのぼること第一次征長でも、広島藩は幕長の仲介役に立った。応接方の船越は長州藩士たちに会い、藩主密使の池田は毛利敬親と折衝したのだ。とくに池田は広島藩主から陰の全権委任大使を命じられ、戦争回避の取りまとめ役となった。征長総督府の徳川慶勝の戦争回避の考え方も伝え、禁門の変に関係した家老の切腹、広島国泰寺での首実検、他の条件なども微細に調整し、落とし所をつけた。一発の銃声もなく解決したのだ。「だれぞ、池田どのが第一次征長を和平に導いた、真の功労者だと知ろうぞ」敬親公との呼吸も、心の動きも、よく存じておられる。信頼も厚い。毛利公を動かせられるのは池田どの、あなただけだ。ここは関ケ原の怨念の大勝負。徳川を倒す好機だと毛利公を説得してもらいたい。そして防長二州を心ひとつにして派兵してほしい、と」「身体が不調での。船越どのと空約束になると、迷惑になる。「そこを、無理してもらいたい。萩まで駕籠を使ってでも」「でもな」「ちょうど今ごろ、薩摩の小松、西郷、大久保のいずれかが防長二州の挙兵を促すために、毛利公に会っておるはず。池田どのは、どう思う?」「それは逆効果だな。相手が理知的な木戸あたりなら、理解を示すだろう。問題は器の大きさだ」毛利公は情が厚い。禁門の変の遺族をいまだ悼んでおる。薩摩はそこらが解っておらんな。禁門の変からまだ四年。大勢の長州人を殺した薩摩から話が出てくれば、敬親公は遺族らの手前、かえって乗れなくなる、と池田は言い切った。「まさしく。だから、薩摩が鹿児島への帰路で、山口に立ち寄り、毛利公に会うと言ったが、それはそれとして……。拙者がこうして、池田どのに頼みに忠海まできた。毛利公が防長二州の全軍へ、『ここは防長二州と安芸の国と三州で徳川を討て』と大号令をだす。それを進言できるのは、池田どのの他に誰がおる?広島から出向かないと、毛利公は動かない。薩摩では無理だ」船越は武力討幕派に近かった。辻将曹の非戦論と袂を分かちあっている。「わかった。わしが毛利公に膝詰めで話そう。『すべての兵を京都に上げよ。関ケ原の毛利の怨念の戦いはここにあり』と命令してもらう」「かたじけない。病身なのに」船越が深々と頭を下げた。(穂高健一『二十歳の炎』P110~118)