『日本歴史大辞典』(河出書房版)で田能村竹田(たのむらちくでん)をひくと、吉沢忠氏が次のように書いている。
「田能村竹田 1777-1835 江戸時代末期の南画家。豊後岡藩士で、家は代々侍医をつとめたが、竹田は儒学に志し、熊本に遊学して、高木紫溟、村 井琴山に学び、また岡藩に招聘された唐橋君山につき、京都に遊学して村瀬栲亭の門に入り、藩校由学館に出仕して総裁にまでなった。画ははじめ郷里の画家に まなび、江戸に出たとき、谷文晁の教えをうけたこともあったが、独自の研究の結果、おだやかなうちに憂愁感を含む独特な画風をきずいた。小品に優れたもの が多い。1811・12(文化8・9)年、再度にわたって岡藩よりおこり、東九州一帯に拡大した大農民一揆に際して、二度も藩政改革の建白書を提出した が、容れられず、1813(文化10)年致仕して、もっぱら詩をつくり画を描いて余生をおくった。京都にもたびたび上り、頼山陽など当時の文人と親交を結 んだことは名高い。高橋草坪、帆足杏雨はその弟子である。著書も多く、「山中人饒舌」は優れた南画論として知られている。」
田能村竹田がもっともその本領を発揮したのは画帖形式の作品で、なかでも傑作は「亦復一楽帖」と「船窓小戯帖」である。その「船窓小戯帖」は、 1829(文政12)年、子の太一と弟子の高橋草坪を伴って旅に出たときの画帖である。この第5図が「売章魚図」で、4月28日、安芸の大崎島で寓目した 章魚(たこ)売りの図に、忠海に至ってから着賛したもので、無心に生きる人々の姿をありのままにとらえた画面として、帖中ことに著名な一図である。この画 には、次のような文が付されている。
売章魚図
蒲田数頃緑扶疎たり
鱗介村を為して簇々として居る
昨夜幾星か沙際の火
朝来棹を鼓して章魚を売る
忠海舟中に作る
忠海は備の尾路を距ること、六七里ならず。未だ免れず、竹下・夢研
諸君の意中に眷々たることを 二十八日、芸の大崎に次りて潮を候つ。戯れに見る所を写す (『江戸名作画帖全集Ⅱ文人画2玉堂・竹田・米山人』駸々堂 松原茂解説)
この画集は竹原書院図書館にあるので一度手にとって欲しい。