竹原書院図書館で渡辺則文著『日本塩業史研究』(三一書房)を借り出した。この本の中に十州塩業同盟の推移と田窪藤平の事績についての記述があるので、紹介しよう。
十州休浜同盟は享保末年以降、塩田の濫造-塩の生産過剰-塩価の低落という一連のコースによる塩田危機への対応策として打ち出されたもので、方法の要点は、一定期間の休業を行い、産額を減少して価格を維持し、一方生産費の減額をはかるにあった。しかしながらこうした休浜盟約は、全国的な規模で実施され、はじめて効果をもちうるものであって、幕藩体制下、藩をこえ、しかも生産諸条件、市場関係を異にする諸国塩浜が、同一規約のもとに休浜同盟を結ぶことは至難の業であったといえよう。しかし、ともかく田中藤六ら先覚者の努力によって明和八年(1771)の翌年には防長二カ国、さらに芸備予三カ国が参加して五カ国協定が成立した。最初、同盟参加を拒否していた備中・備前・播磨・阿波・讃岐の諸国も次第に参加し、ここに全国生産高の約90%を生産する瀬戸内十州塩田の同盟が締結され、途中紆余曲折をへながらも明治維新に及び、さらにそれが再編強化され、明治十年代わが国塩業の中心問題として塩業者の強い関心を集めることになった。(P146~147)
休浜実施をめぐっては、富有浜主層=推進派と非力浜人層=反対派との間にはげしい対抗関係が見られた。預かり浜人(小作人)・非力浜人らは、たとえ塩価の低落があっても、周年営業することによってはじめて再生産が可能という生産条件におかれていたため、休浜は死活の問題としてあらわれてくる。とくに浜子=塩業労働者層はなおさらのことである。非力浜人といわれる層は、たとえ自作であっても小浜が多く、したがって生産力も低く、しかも家族労働の占める部分が大きいため、四カ月乃至六カ月の休業がどのように生活に響くか想像にかたくない。小作人層とて同様である。
一方、浜子=塩業労働者にとっては休浜期間、他の何らかの仕事に従事しない限り生計は成り立たない。この休浜と同じ意味をもつ替持法(塩田地場を二分または三分して隔日または二日おきに持浜にする)の実施も浜子の人員削減と労働過重を意味する。それだけに安芸国竹原塩田で文政十年(1827)に替持法を実施した際、支配者層が危惧したとおり労働過重がもっともはなはだしかったはなえ(下級浜子)層によって仕組まれた二十日間の職場放棄をスローガンとした騒動に遭遇している。(P149~150)
近世後期から明治前期にいたる間の、生産制限を中核とする十州塩業同盟の推移から結論的にいえることは、休浜盟約が有力塩田地主層と小規模塩業者(自作)・小作人・塩業労働者層との階級対立を内包しつつ推転してきたということである。しかし江戸時代と条件を異にする明治十年代において、江戸時代と同様の休浜実行が矛盾を拡大させるのは当然で、ついに「夥多ノ細民」の抵抗によって休浜中止のやむなきにいたったのである。塩田地主制が確立しつつある明治十年代、一定額の現物小作料取得者たる富有塩田地主層の最も望むところは塩価の高騰にほかならなかった。したがって十州塩業同盟は彼らにとってはあくまで「名を改良に藉り休業を挙行」して「価格を騰貴セシメント慾」するのが真の目的であった。現に伊予波止浜塩田出身の田窪藤平は、幕末から明治にかけて、芸予諸島の塩田を小作しながら塩田改良につとめ多大の成果をあげた。彼が塩田作業改良の一つとして浜子の労働時間を短縮した点は評価すべきで、さきに竹原塩田で休浜の目的で替持法を実施し、浜子の削減と労働過重策をとった地主的立場と対称的である。それはともかくとして、松永・竹原等芸備の有力塩田が田窪藤平を招聘して塩田改良に着手したのは明治十年代もごく末の頃であった。(P171~172)