このたび、『エデンの海』の作者である若杉慧氏のご子息より高橋玄洋氏を通じて、『エデンの海』の舞台となった忠海に記念碑を建てたいとのお話しがあり、現在忠海町コミュニティー推進協議会において、その具体化について前向きに協議が行われているところです。
そこで、今回の忠海再発見は若杉慧の小説『エデンの海』をとりあげてみます。若杉慧は、大正15年(1926年)から昭和2年(1927年)まで忠海高等女学校の教師として在職し、その時の経験をもとに『エデンの海』を書いたと言われています。
「忠海高等女学校‥‥‥いまはなくなったこの女学校を舞台に青年教師南条と野生の少女、清水巴を包む明るいロマン『エデンの海』が生まれた。授業中、少し もノートをしない、手もあげない少女、寄宿舎を抜け出した帰り南条に見つかると『わたし、本当に好きな人は先生です』とまたたきもせず言ってのける少女。 そして『ああ、沈黙の王者・岩よ、おまえは私よりあまりに大きく見え、静かに強く見え、あまりに永い生命を生きて見える。私はおまえとお友達になりたい』 という少女。あふれ出る自然のエネルギーのままに生きる少女巴。
『おい、おい、おろしてくれ』-叫ぶ南条を一緒に乗せたまま馬で学校に乗り込んだ巴の天真らんまんさも職員室では『退学処分』の声になる。『ぼくがきみた ちから一ばん欲しいのは率直さということなんだ。いったいきみたちはなぜそんなに、かげ口が好きで、嫉妬ぶかくて、がんこで、そのくせ面立つとカラ意地が ないんだろう。ぼくはこの学校の抜き難い伝統といってもいいこの傾向を何とかして明るいものにしようと、一生けんめいやってみたが、けっきょくぼくの気持 は誰にもわかってもらえなかった』学校を去る決意を述べる南条に涙のコーラスがわき起こった。『エデンの海』は戦後のやり切れない暗さの中にぱっと明るさ を投げかけた作品の一つ。その映画化もたちまち評判になった。」(河村盛明編『広島文学ノート』P128~129)
この『エデンの海』について、角川文庫版の解説で高山毅氏は次のように書いて、この作品を高く評価しています。
「戦後の廃墟の中に、文壇では、エロチシズムや肉体派の小説がハンランしていた。世相の反映であるから、それはそれでよいとして、何か明るいロマンが一方 には求められていた。『エデンの海』はこの欲求にこたえたものであった。一女学生と青年教師との恋愛を、暖かい瀬戸内海地方の女学校生活を背景にして描き 上げたこの作品は、石坂洋次郎氏の『若い人』を連想せしめるものがあり、いわばその戦後版ともいえなくはない。しかし、石坂氏がいみじくも述懐しているよ うに、『若い人』に比べて、文章や思索の感覚が洗練されており、『若い人』のエピゴーネンではない。(中略)日本の作家の書くものには、意外なほどに色彩 感覚が乏しい。色彩感覚に恵まれた作家は、川端康成氏のみといっても差し支えないくらいであるが、『エデンの海』は、色彩感覚の溢れた美しい作品である。 巴が白いホウタイをしているところ、百合の花を手折っているところ、遠泳の場景など然りで、これが文体に新鮮な感じを与えていることは争えない。」(角川 文庫版『エデンの海』P107)
広島県が監修した『広島県文化百選⑥作品と風土編』でも石坂洋次郎の『若い人』との関連で紹介されています。(P44)