『文藝春秋』の3月臨時増刊号特別版のテーマは「桜 日本人の心の花」で「全篇書下ろし93人の『桜ものがたり』」というサブタイトルが打たれている。
この中に忠海の黒滝山の桜が登場する高樹のぶ子の文章が載っているということを三原市役所に勤務する友人が教えてくれたので、早速竹原書院図書館で借り出 して読んだ。黒滝山の桜も小説家の手にかかるとこのように表現されるのだという感慨を覚える文章なのでここに紹介する。
「桜の花は何色か。桜色か。少し違うような気がする。もっと薄い、はんなりとした闇の色。
そういえば花闇という言葉もある。花闇は暗くない。むしろ明るい。それでも闇は闇、日本人の視界を覆い、平衡感覚を奪い、妖しく切なくさせる。
身体の異変への予兆を秘めてもいて、生命が生れ出る輝きというより、血や死のイメージが似合っている。(中略) ………幼なかったとき、私も強烈な桜体験をした。
小学校を卒業して中学に入るまでの春休み、私と妹は、広島県の忠海という小さな街に預けられていた。くねくねと出入りの多い海岸線を走る呉線の、三原に近い美しい街である。母が肺結核にかかり、引き離されたのだ。
預かってくれたのはこの街で歯科医をしているTさん夫妻で、子供が無い二人は、私と妹を自分達の子供のように可愛がってくれたのだが、どうやらTさん夫妻 のネライは妹の方だったようで、眠る前には妹の傍らに添い寝した夫妻が『うちの子になって、ずっとここで暮さない?』と囁くのだ。
私は同じ部屋で、黙ってそれを聞いている。その囁きは本気とも冗談ともつかなかったが、私は自分が囁かれないことの失望と、妹を奪われるのではないかという不安で、夜が来るのが嫌だった。
妹は私よりずっと可愛かったし、子供らしく無邪気で、気の強さばかりが、目立つ私などより、いつも大人に愛されていた。
忠海は、海岸線から急に山がせり上がっていて、その急な斜面には桜が点々と連なっていた。山頂には寺か神社があるらしかったが、子供にはとても登ることが出来ない坂道だった。T夫妻からも、登るなと言われていた。
だが、どうしても登りたい。単なる好奇心ではなく、もっと切実なT夫妻への反抗心だったかも知れない。 そのころ私は、心も身体も不調というかすべてが腹立たしく心臓はドキドキして、自分が自分でないような毎日だった。
ある日私は、妹を連れてこっそり山へ登った。 山はどこまで登っても桜が続いていた。怖いほどの花闇だった。花の中に迷い込み、下山道も見つからず、妹は泣き出した。桜の枝は怖く、息苦しいまでに覆いかぶさってきた。
一時間も迷った末、T夫妻に救出された。それから一週間後、私の身体が女になった。 十三歳の春、忘れ難い桜体験である。」
(高樹のぶ子「桜体験」=『文藝春秋』2003年3月臨時増刊号P176~177)
高樹のぶ子は、昭和21(1946)年生まれだから、彼女が忠海で春休みを過ごしたのは、昭和34(1959)年ということになる。当時の黒滝山の桜がど のあたりに、どのように咲いていたかは私たちの記憶には定かではないが、小説家の目を通すと、このように鮮やかに黒滝山の花闇の桜が浮かび上がってくるも のなのだということを実感させる文章なので、ここに紹介した。